読後、半年ほど放置していた本もある。
積まれたままだったので、元に戻しつつ一冊ずつ振り返る。──
○メアリー・ダグラス/バロン・イシャウッド『儀礼としての消費 財と消費の経済人類学』
浅田彰、佐和隆光の共訳。
経済人類学なので、経済活動を人類学的に社会外から見つめる。
その意味で、非常に興味深く、おもしろかった。
その視点はまず、「財」を、「合理的な種々のカテゴリーの、多少とも費用がかかり多少とも一時的な標識として扱」う(p.20)。「所有権のもとにひとまとめにされた財は、選択者が同調している価値のヒエラルキーについて、物理的に目に見える形で物語っている」と。社会においては、財は衣食住のためにあるのではなく、非言語的なコミュニケーションツールである。
また、消費は「商取引も強制力も自由な人間関係に干渉しえないことを明示する規則によって守られた、一定の行動領域」(p.93)と定義される。だからこそ、現金と贈り物が区別され、人類学がミクロ経済学を包含する。
こうして、財と消費は、財界・政界をミクロレベルで規定するコミュニケーションツールとなる。人ごとの周期的な消費習慣によって、社会階層を区分する行動領域の格差となる。
○ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』
平凡社ライブラリー刊。
『ドストエフスキーの詩学』としてカーニヴァル論を追加する前の、
バフチンのドストエフスキー論の核心をなすポリフォニー論が主題。
ドストエフスキーにおいてはあらゆる登場人物が精神分裂的であり、
他者化された自己との対話によって、語りが進行してゆく、とする。
あらゆる言葉が他者を横目に意識して、びくびくして緊張している。
冒険小説のように、人は明確なアイデンティティを持たずに物語を回遊する。
「その人は何者か」という問いは、ここでは意味をなさない。
また、言葉の内容と言語行為の差異や、物語枠外の大衆の声の導入など、
複雑に搦みあったポリフォニー構造の響きあいとして、
ドストエフスキーの諸作品が分析される。
この分析にも、この分析で解明されるドストエフスキーの作品構造にも、
ともに嘆息せざるをえない。
○ドストエフスキー『白夜』
短篇で、ドストエフスキーらしからぬ可憐な物語。
ただ、淡い恋のような小品の主題も、
ドストエフスキーにかかればこの言葉うるさい文体になる、という一例か。
上述のポリフォニーの萌芽らしい語りの緊張感が、きちんとある。
○リチャード・パワーズ『エコー・メイカー』
トラック事故でカプグラ症候群に罹った弟とその姉をめぐって、
じっくりと物語が進む。
筋がなかなか進行しないまま、脇へ脹らんでゆく印象の長篇だった。
だが、その脇の語りは現代アメリカの歪みを描写している。
教育、雇傭、家計、産業、自然保護。そのすべてにおいて、
変と不変の板挟みでもがき苦しむ姉が語り手だ。
舞台は代わり映えのしない小都市で、
姉弟はアメリカ・キリスト教の保守的な家族に育った。
しかし姉は、そこから変わろう飛び立とうと、もがき苦しむ。
その中で、変わるものと変わらないものの岐路として
厖大な描写を捧げられているのが、街の名物でもある鶴だ。
鶴は「エコー・メイカー」として、
散りばめられた主題をニューロンのように結びつける。
○ナザニエル・ホーソーン『緋文字』
光文社古典新訳文庫版。
アメリカという国がニューイングランドとして、
清教徒色の濃い崇高な思想とともによちよち歩きを始めた時代の、
その異様な村社会が、面白かった。
ストーリーではなく文章に読まされている感じがあったが。
マサチューセッツ州セイラムという古い港町で始まる序章は、
小説が過去をたぐって引き寄せられた史実である、とする枠構造だが、
その枠の内外の緊張感の差もまた、
時代の差として主人公が懐かしんでいる感じがよく含まれていた。
○若山滋『建築家と小説家 近代文学の住まい』
著者はプロフェッサーアーキテクト。
建築史と文学史を搦めて概説しつつ、近代文学における建築が語られる。
住居構造から読み解く文藝評論は鋭い。
篠原一男という建築家に興味を持った。
伝統的な住居形式を現代に接ぎ木するのではなく、
伝統を援用しつつ現代における空間美を追求した、らしい。
建築が小説において意味をなした時代は、
もしかすると終わったのかもしれない。
例えば、綿矢りさ『蹴りたい背中』では蜷川の別居状態が語られるが、
それは古井由吉『円陣を組む女たち』が奇怪らしく描く団地の相互孤立の
一つの最終形態というにすぎないように思われる。
村上龍が若者を描くときの個室宇宙、絆なき人間模様を描く柳美里、
そんな時代に建築は打つ手もないのかもしれない。
○ポール・オースター『リヴァイアサン』
中身は措いて、ポール・オースターと谷崎潤一郎は似ていると思う。
始点と終点と、いくつかの中継点がまず設置されたのち、
その接続において、ある種の即興性を感じる。
オースターの代表作はそれが美しくリンクされているが、
『リヴァイアサン』はところどころ時系列を逆転したり、
あとで種明かしをたっぷり用意したりと、ある程度荒削りに読めた。
それはむしろ生成論的に面白かった。
○内田百閒『東京日記』
内田百閒の小説はサルヴァドール・ダリの絵のようだ。
克明だが摑みどころがない。
まあ、日記帳の奇譚集だからなのかもしれないが。
抑揚を欠き、描写ごとの指向性が弱い、
この文体が好きな人は、いるのだろうが。
○坂口安吾『堕落論』
大学時代、研究室の二つ上の先輩に買ってもらった新潮文庫版。
表題作のほかにも重要な評論が収められている。
安吾は戦後体制でかなり珍重された作家だったというが、それはよくわかる。
また、同義において、現代もっとも読み返されるべき作家だろう。
安吾は根源的なまでに、既存を問うことができる。
それでいて浮き足立っておらず、現実からスタートしている。
安吾が説く「堕落」を怠ったからこそ、
現代日本は右翼が歴史なき妄想的な主張を声高に叫ぶし、
ビジョンなき閉塞感がそこここに漂っている。
そんな気がしてならないまま、機上で読み終えた。
初期の短篇らしく、二項対立を軸にした作り。
圭さんは行動的、屈強で、
せっかく阿蘇に来たのだから噴火口を見に行きたい。
実家が豆腐屋で、身分社会を憎み、貴族や金持ちが嫌い。
一方、碌さんはあまり自らを語らず、聞き役に徹する。
自分のペースで進みたいのに、
とうとう腰を痛め足を豆ばかりにしても、
最後は圭さんに圧倒されて諦めるように再度の山登りを諾する。
圭さんよりも碌さんの思考のほうが、語られず動かされる身なだけ、興味深い。
元になったとされる実体験を漱石が経験したのち、
この二項対立が、一つの含意を暗に仄めかしているから、
作品としてのこされたのだろう。
そう考えると、圭さんは西洋的、碌さんは東洋的だ。
圭さんが言動で示され、碌さんは態度で示される。
ならば、この短篇から感じる二項対立はむしろ、
非対称的なアンバランスだ。
「現代日本の開化」で漱石がいう光速の欧化が、
圭さんのせっかちさに現れている気がする。
また終盤、圭さんが貴族・金持ちを批判する強引さが、
圭さん自身の登山に邁進する姿と重なる。
この奇妙な矛盾が、当時の世情にあったのだろうか。
「二百十日」という立春から数える台風の季節の呼称も、
明治維新後の明治何年というような行く末を、なんとなく感じさせる。