夏目漱石『虞美人草』
擬古文調で読みにくかった。
が、漢詩も作った漱石が書きたかった小説なのだろう。
漱石の中期以降の作品によく主題とされる三角関係が主題的に顔を出すが、
評論めいた文章も随所に散りばめられて、そちらも読ませる。
理論と物語が一致するクライマックスは、『草枕』を髣髴とさせた。
終盤はほぼ人生論だ。
「問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織か繻珍か、これも喜劇である。英語か独乙語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である」
だがむしろ、宗近君がロンドンから短く返す「ここでは喜劇ばかり流行る」は、
西欧と文明について沈思した漱石が、
近代日本に対して放ったもっとも鋭い警句だろう。
アントニオ・タブッキ『逆さまゲーム』
タブッキらしいトリックが「逆さま」に込められていて、
だが、それは仄かに感じるといった程度だった。
正直いって、それをあまり読み取れなかった。
それよりも、人の弱さのような余情が常に作品から漂ってきて、
その趣きにそっと耳を傾けるような小品が、なんとも心地よかった。
作品は20世紀初頭だが、『ペドロ・パラモ』の死者の問わず語りのような、
ある種の普遍性が、墓から語りかけるような文体だった。
夢野久作『少女地獄』
少女をめぐる三短篇の連作。
夢野久作の作品の例に漏れず、いずれも書簡形。
そのため回想的になり、よってしばしば時系列を無視して結論が仄めかされる。
これがおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
あとで粗筋を追えば感情なく思い返せるが、
自殺や迫る刃といったクライマックスをすぐ前にした緊迫した状態で語り始められ、
一人称で最後までずっと緊迫している、
その文体がもっとも読ませる。
太宰治 短篇集
ちくま日本文学シリーズの一。
「ロマネスク」のような初期作品から「桜桃」など晩年の作品まで収録し、
分量としては「女生徒」「カチカチ山」など精神安定期(?)が多い印象。
津島修治の小説はあまり読まずにきた。
しかし、いざまとめて読んでみると、惜しかったとも思う。
「新釈諸国噺」「お伽草紙」を読むと、太宰はやはり戯作派だと思う。
一方、「親友交歓」「桜桃」「ヴィヨンの妻」を読むと、
戯作派の類でありながら、同時に、
自他に絶えず浴びせた冷徹な視線を感じざるを得ない。
この両義性が、太宰治の魅力なんだろうと思った。
太宰治の小説は風景画ではない。あくまで心象画だ。
そして、たいてい自画像でありながら私小説ではない。
太宰にはそれ以外になかったのだろう。
太宰は方法論的な小説家であり、太宰の諸小説はその七変化と濃淡なのだろう。
クリストファー・マーロウ『エドワード二世』
森新太郎演出。初台の新国立劇場の小劇場で鑑賞した。
二年前だったか、同じ劇場で観た
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』と同じ演出者。
確かに、舞台装置や、移動・戦闘の場面の立ち回りは、
抽象化されていて、類似を感じた。
もっとも、『ゴドーを待ちながら』は殺伐とした作品で原作そのままだったが、
『エドワード二世』は茶化したような演出だった。
だが、悲劇一般が主張するネガティブさではなく、
私欲にまみれて生きることへの肯定や慰撫があたたかく感じられた。
森鷗外『渋江抽斎』
青空文庫版。電子書籍は空き時間にすぐ手に取れるので読みやすい。
もっとも、註釈なしに読むのはなかなか難しかった。
小説ではないこの作品をどう考えればよいのかわからないが、
もしかすると、考える必要もないのかもしれない。
ルネ=マグリット『これはパイプではない』の解釈論のような、
分類の境界をつつく真似に陥りかねない。
この作品が楽しめるのは、小説ではなく歴史が小説のようであることと、
歴史が手近に見出だされて現在に連綿と続いていること、の両立からなるのではないか。
鷗外が古書に渋江抽斎の名を見出だしその人物を調べてゆく流れと、
鷗外によって語られる系譜とエピソードが、最後に交叉して繋がること、
その、小説と事実との隙間にこごった上澄みのような形式が、
私としては、面白かった。
もっとも、この視線はあくまで小説家というより歴史家のそれだ。
その端々に、しばしば小説の萌芽が見出だせるにすぎない。
この、小説(虚構)と歴史(事実)の合間を縫って織り上げたのが
後藤明生だ、そう考えている。