世界史を生産様式ではなく交換様式から捉えなおして、
今後の世界史のゆくえをも示唆している。
(もっとも、世界同時革命の現実的手段として、
国際連合が挙がっていたのは、現実問題として、
いささか早計というか興ざめな気がしなくもなかった)
柄谷行人らしい短く適切な文章は健在で、
読みやすく、そして、非常に面白かった。
文明の伝播や個人間・共同体間の交換は、
交換というシステマティックな作業ではなく、
もっと協同的というか、感情的な側面に負うところがある。
だから、交通、あるいは、感応、というべきか。
Hic Rhodos, hic saltus !
三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』
講談社現代新書。
著者は団地や郊外を批判的に論じてきたという印象を持っていた。
その基本認識を明らかにしている著作として、読んだ。
第二次大戦後のアメリカの、レヴィット・タウンによる郊外開発と、
主婦という職業の発明が、日本の郊外論の原型として紹介される。
そして、50年代、中流階級という働き方がコモディティ化した後で、
主婦という役割に疎外された倦怠感が、
主婦症候群(housewife's syndrome)として現れる。
日本はオイルショック後、同じ問題を後追いし、
76年の開成高校生の両親殺害事件が起きる。
その後、酒鬼薔薇聖斗事件、ネオ麦茶事件、
最近は川崎の事件など、郊外型事件は後を絶たず、
いつも少年法が悪者にされていつのまにかうやむやにされてしまう。
その問題先送り感は何なのか?
団地が平均的家族以外(例えば無職)を許さない雰囲気、
共同性の欠如、人間関係や善悪を学ぶ機会の喪失。
あるいは、ホワイトカラーの増加による労働の均質化、
どんな職業でも違いのみえない平等・均質さ、
伝統的な父性という"稼ぐ"身体性の喪失。
家庭内の分業。
いずれも一因かもしれない。
物質的な豊かさゆえ、という元兇に帰結できるかもしれない。
大量生産的であるゆえの豊かさは、
結局、個々人や生き方をもプロトタイプ化させ、その逸脱を許さない。
では、どのように地域性や共同性を復権できるのだろうか?
アルカイックな郷愁や、自由の制約のような、外圧ではなく、
個々が自発的に多様性を認めあい、価値を見出せること。
バブル後の経済停滞は一方でそんな多様性を育みもしているかもしれない。
にもかかわらず、宅地はあいかわらず開発され、
団地は聳え立ち続けるのは、なぜなのか。
都市は今後、どのように人間の住むところとして、可能なのか。
レム・コールハース『S,M,L,XL+ 現代都市をめぐるエッセイ』
ちくま文庫版。抄訳だという。
建築家がかくも人間の生活様式を射程に入れているとは、
恥ずかしながら知らなかった。
思考が筆を引っぱるままに語られる、都市に対する視線は鋭い。
言葉は的確に選び抜かれていて、
読みやすくわかりやすいながらも、はっとさせられる。
(普段はここで、目を引いた一節を引用して記憶にとどめておくが、
この一冊はさいわい所有しているため、その作業を省く)
カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」
筑摩書房の『マルクス・コレクション』より。
(大学生時代、『資本論』新訳がこの叢書で進められていて、
一冊だけ上梓されていた。
今なお未完ながら四冊が発行されている。)
第二共和政下のフランスの議会政治の二年間が綿密に語られる。
その記述がこの論文の大部分だが、せせこましくて、正直つまらない。
が、ルイ=ナポレオン・ボナパルトが結果論的に政権を掌握すると、
ようやくその二年間がなんだったのか、明らかになる。
プロレタリアート、ブルジョワジー、王政復古派の
議場内での潰し合いであり、
結局は議会制の先細りと死にほかならなかった、という史実だ。
民主主義と一体であるかのような議会制が、
なぜ、かくも民衆の意思を措いて踊り狂ったのか。
この一連の悪夢のような史実は、いったい何を示唆しているのか。
公民教育に欠けた民衆が権力を有したときの衆愚政か。
マルクスが終盤に指摘しているように、
第一帝政期に施行された農地の分割所有が、
封建貴族の凋落と都市ブルジョワジーによる土地収奪を経て、
農村共同体を個々人へと解体させたために、
大量の零細農民の発生に帰結していたというにもかかわらず、
農民たちはルイ=ナポレオン・ボナパルトを支持した。
(まるで、明治維新や艦隊を、過去の自らの栄光だったかのように
歴史考証なしに崇める、どこかの国民のように。)
大衆が権力を持つとき、必ずしも自らを一階級としてみなさず、
単に、権力闘争の終焉を願ってのみ、民衆は欲するのか。
半世紀にわたる事実上の一党独裁政治を許容した日本の例でもある。
執行権力と律法権力の対立は、国民の他律性とその自立性の対立の現れなのだ。(p.121)