1.7.16

『池田はるみ歌集』、中野重治「村の家」、ホメロス『オディッセイア』

 『池田はるみ歌集』

砂子屋書房の現代短歌文庫から。

「帰りたきいろこのみやの大阪やゆきかふものはみなゑらぐなり」。
故郷大阪を離れて歌うという感覚の共感を求めて、読んだ。

生活や人生のどこかに何らかの特異な短歌の材を求めるというのでなく、
相撲やうどんや結婚や葬儀の連作など、短歌が日常に根ざしている感じ。
題材を歌に綯う文体はけっこう直截で、するっと心に沁みてきた。


 中野重治「村の家」

主人公は非合法運動を辞めて、今や実家に引きこもって翻訳をしている。
しかも、非合法運動のゆくすえで対象化ができない暗示か、
翻訳はうまくいっていない。

夢破れて実家に帰り、夢の残滓を追うともなく追う。
そのポーズは本来の目的のためなのか自分への慰みのためなのか、
それさえもうわからない、という。
人生は訣しきれないまま引きずられて、
やがて妥協に妥協を重ねて骨抜きにされる。

その圧力はどこから来るのだろう?
親兄弟や村のつながりというより、
むしろ、結局そこへ帰ってしまう精神性ではないか。
そこでは時間はゆったりと心地よく流れているが、
あらゆる気概を腐らせる。

村の人間の代表格のように描かれる主人公の老父こそが、
村という場所のどうしようもない強靭さ、したたかさを熟知している。
いくらでも人を束縛し、酷使し、脱力させ、摩耗させる"村"とは何か?
なぜ、打倒されるどころかいつまでも寄り縋られ、いつまでも残るのか?

そう考えると、現代社会に"村"は遍在している。
われわれはいくつもの"村"にまたがって、行き来しながら生きている。
また、"村"においてこそ、人は"個"ではなく"孤"なのかもしれない。


 ホメロス『オディッセイア』

岩波文庫版。松平千秋訳。
恥ずかしながら未読だったので、読んだ。

ギリシャ神話における神について。
Deus ex Machinaの運命論的な因果律に依るにしても、
なぜ人間がかくも主体的(=非・従属的)で、生き生きとしているのか。
読み進めるにあたり、神は神聖にして侵すべからざる存在ではなく、
むしろ、ギリシャ世界の支配階級のさらに一つ上位の階級、との印象を覚えた。
神とは神聖さによるのではなく裁定者であり、
ゆえに決定論的であることと人間的であることの両立が図られているのではないか、と。

語りについて。
地の語りは淡々と叙述的ながら、
科白が饒舌で雄弁な叙事詩になっている。
口承文学においても、地の文ではなく科白が主に内容を負うというのは、
なかなか珍しいのではないか。
語り手という絶対的な視座が断定的に語るというわけでなければ、
何が叙述を客観的に断定するのか。──雄弁さである。
雄弁が地の文ほどに客観的に容れられるとは、
いかにも古代ギリシャ文化的な気がする。

次は本作の壮大なパロディたるジョイス『ユリシーズ』を読みたい。