19.10.16

サイード『オリエンタリズム』、モディアノ『失われた時のカフェで』、ポー『黒猫』、宮沢賢治『なめとこ山の熊』

 エドワード・サイード『オリエンタリズム』

先行研究が判例のように重視される人文科学において、
大きなドグマのようなものがいかに根深く巣食ってしまっている可能性があるか。
深層心理が理論的に裏打ちされ、あらゆるディスクールを侵すことで、
いかに市井の人々の先入観に埋め込まれてゆくか。
つまり、メディア(媒介)の語りだけで現実を把握した気になってしまい、
その内容のみならず文脈、文体、話法が知らないうちにいかに思考に染み込んでしまうか。

この著作は、扱っている問題の根源的な深さゆえ、
東洋学という一学問分野への批判を超えて、
文明論であり、また制度論であり、さらには文藝批評でもある。
さらには、概して日本人の好む日本人論の種明かしのようでもあった。
むしろ、同工異曲にオリエンタリズム批判を繰り返すねちっこい文章を追ううちに、
プラトンの洞窟のイデアを実地で問うような議論にしか読めなくなっていった。
我々はどこまで、言語とその社会的含意から離れて、
何かをありのままに見つめることができるのか?
これはもはや現象学である。
ただ、そうした一種の判断停止を経ないままに突っ走った学問が、
いかにグロテスクに肥大したものとなってしまいうるのか。

例えば、文学はどこまで文学そのものを客観的に批判できているのか?
言い換えれば、文学がどこまで社会に即し、あるいは社会に対峙できるのか?
人文科学がテクストの総体である以上、
言説は常に偏見を含んでいて、容易に抜け出せない先行研究と化してしまう。
それはシニフィアンとシニフィエのずれのように宿命的で、
ある意味で、どうしようもできないものなのだから。
自己完結を断つために、批評といった外部装置があるのだとは思うが、
それが文学と同じ言語で文学に従属的な立場でなされる以上は、
どうしても限界がある。


 パトリック・モディアノ『失われた時のカフェで』

淡い水彩の、優しい色の抽象画のような、そんな小説だった。
語り手は複数いるし、時系列は気ままに前後するのに、
どんどん読み進められるのは、
記憶の流れるにまかせているような筆致ゆえだろう。

何かを語るとき、そのものを語るのでは決してなく、
外堀を埋めるようにして周辺を語ることで、
そのものを浮かび上がらせる。しかも、情景とともに生き生きと。
そのような文章が、また、心地よかった。

ただ、翻訳がどうしても鼻についた。
「僕らはアレ、その小道のいっとう先にいた。」と読んで、
alléeが小道と知らなければ、どう解せるのだろう。
あるいは、そう訳すしかないような原文なのだろうか。


 エドガー・アラン・ポー『黒猫』

佐々木直次郎訳。青空朗読版。

癇癪もちの倒錯した心理を描く冷静な文章が美しい。
ストーリーの構造もまた、対称的で美しい。
すべてが、生来の動物好きと、その裏返しである虐待癖とで、対をなしている。
黒猫はその鏡のような存在だ。
その名はプルートォだが、冥王はむしろ語り手たる主人公だ。
猫の首を木の枝に冷然と吊るし、妻を斧で殺す。
だが、妻の死体を隠した漆喰の壁は(おそらく斧で)崩され、
主人公は絞首刑に処せられる。
これらの因果に一つ一つを、プルートォの片眼と抉られた眼窩がそれぞれ見つめる。


 宮沢賢治『なめとこ山の熊』

青空朗読版。

いくつかの小話が寄せ集まって、なめとこ山での小十郎と熊の生き様や価値観を示そうとしている。
作者が示そうとしたのは、誰もがやりたくない役割を担って、
納得いかないみたいに首を傾げながら生きている、ということではないか。
小十郎はやりたくもない熊猟をし、
荒物屋は買いたくない熊の毛皮と胆を買い、
熊は自分たちを殺す小十郎が好きだというし、
だからか2年前の約束のために死ぬし、でも殺すつもりのない小十郎を殺す。
唯一の救いは、桃源郷のように迷った先に現れた熊の親子の何気ない会話だけだ。

宮沢賢治は自然を畏敬しながらも、それを単なる美しいものとしては決して描かない。
科学者らしい観察者の目で。だから、「なめとこ山の熊のことならおもしろい」のだろう。
そう考えないと、この話はおもしろいとは思えないからだ。