江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」「日記帳」「算盤が恋を語る話」
「屋根裏の散歩者」は日根による朗読。「二銭銅貨」はmamezoによる朗読。
「日記帳」「算盤が恋を語る話」は二宮隆による朗読。
「屋根裏の散歩者」「二銭銅貨」は「人間椅子」と同じく、
社会に隠された空間を見出だす話だ。
だが、その発見によって主人公は何らかの欲望を抱く、というより、
主人公はそこに物語を渇望している、という構造になっている気がした。
「屋根裏の散歩者」の主人公は、
かつて別世界を眺めるようにのめり込んだ殺人トリックを適用するし、
明智小五郎による嘘の証拠品に自らの罪状を物語的に結びつけることで自白へ導かれる。
「二銭銅貨」は松村と語り手がトリックを仕掛けあうが、
現実には何も起きていないぐうたらの中にいるだけだ。
欲望が物語を作る。
それは、「日記帳」「算盤が恋を語る話」も同じだ。
暗号が相手に伝わらないまま、主人公が妄想をたくましくする話だ。
林芙美子「幸福の彼方」
海渡みなみによる朗読。戦後間もない貧しい生活感と、先行きのわからないながらもぼんやり明るい時代が、
作品を幸せな感じにしている。
一方その背後で、前提のようにしか語られないが確実に時代と個々を蝕んでいた戦中が、
すでにすぎたことにされている、この阿呆ともいえる健忘症が、
どことなく作品の厚みを削いでいるような気もする。
作品が書かれた時代とある種の対極の側からの読後感だろうが。
あと、正直、林芙美子が描く男女間の理想には隔世の感があるのか、よくわからない。
女性が家庭にいることが当たり前の時代への知識から、類推はある程度できるが。
幸せが家族と直結する感覚。そういえば、女流作家という言葉があった頃だ。
林芙美子「新生の門 ──栃木の女囚刑務所を訪ねて」
兼定将司による朗読。女性刑務所を訪ねるという短いエッセイで、
女性服役者への表面的な親近感が語られる。
上の作品で感じた女性観への違和感が続く。
服役者への差別視を乗り越えることが新しかったのだろうか。
林芙美子は女性を描いているが、視座は男性なのかもしれないと思う。
鉄道恐怖症の主人公が徴兵検査のためながらなかなか京阪電車に乗れない。
好まない目的のために鉄道への強迫観念で心身を滅ぼす(と思い込む)こと、
しかも期日など実はどうでもいいのかもしれないということ、
このあたりが、一つの明確な目的ではなくおぼろげな行く末という
第一次大戦前の空気への風刺なのか。
時代閉塞というより、身に染みわたった日和見主義を指すのかもしれない。
だから、電車になかなか乗らない言い訳を他人にしたり、
かといって、知人に誘われて乗ってしまったり、
人の目を気にすることは人一倍長けている。
ここに描かれる恐怖は、その原因がわからないゆえに表面的だ。
まず、徴兵検査は当然とされていて、行く必要があると信じて疑われない。
小役人が大義や大局から目をそらし、
絶えず上司の飼い犬のように動くのと同じだ。
だから、徴兵検査そのものを検証すべきなのに、そのアイディアは一切ない。
そして、常識を守らない恐怖は際限がない。
10年くらい前に一度、大学図書館で手に取ったような記憶があるが、
ほとんど読み始められないまま却して、年月が経ってしまった感がある。
新訳ということで読みやすかったものの、自在な語り口は生半可には追えない。
その意味で、この作品は小説というより、散文詩だと思った。
巻末の解説に「アニミズム的」とあって、言い得て妙だと思った。
妄想は実体化するし、譬えが次の行動へ流れ込む。
この文体は驚異的だ。物語が因果律のようでいて、自由律なのだから。
それでいて、小説の基本軸たる物語がこれでいいのかという程度には存在する。
谷崎潤一郎「恐怖」
岡田慎平による朗読。鉄道恐怖症の主人公が徴兵検査のためながらなかなか京阪電車に乗れない。
好まない目的のために鉄道への強迫観念で心身を滅ぼす(と思い込む)こと、
しかも期日など実はどうでもいいのかもしれないということ、
このあたりが、一つの明確な目的ではなくおぼろげな行く末という
第一次大戦前の空気への風刺なのか。
時代閉塞というより、身に染みわたった日和見主義を指すのかもしれない。
だから、電車になかなか乗らない言い訳を他人にしたり、
かといって、知人に誘われて乗ってしまったり、
人の目を気にすることは人一倍長けている。
ここに描かれる恐怖は、その原因がわからないゆえに表面的だ。
まず、徴兵検査は当然とされていて、行く必要があると信じて疑われない。
小役人が大義や大局から目をそらし、
絶えず上司の飼い犬のように動くのと同じだ。
だから、徴兵検査そのものを検証すべきなのに、そのアイディアは一切ない。
そして、常識を守らない恐怖は際限がない。
ジャン・ジュネ『花のノートルダム』
光文社古典新訳文庫版。中条省平訳。10年くらい前に一度、大学図書館で手に取ったような記憶があるが、
ほとんど読み始められないまま却して、年月が経ってしまった感がある。
新訳ということで読みやすかったものの、自在な語り口は生半可には追えない。
その意味で、この作品は小説というより、散文詩だと思った。
巻末の解説に「アニミズム的」とあって、言い得て妙だと思った。
妄想は実体化するし、譬えが次の行動へ流れ込む。
この文体は驚異的だ。物語が因果律のようでいて、自由律なのだから。
それでいて、小説の基本軸たる物語がこれでいいのかという程度には存在する。
この作品の醍醐味はあくまで瞬間々々の煌めく思考と文体だ。