ギルバート・キース・チェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』
いくつか訳が出ているなかで、光文社新訳文庫の南條武則訳を択んだ。
話が現実味を帯びた舞台から空想的なふわふわした次元までいっても、
きちんと語り手が煙に巻かれずに語り続けてくれる、
そういう小説は、実はもっとも堅牢な気がする。
いい意味でも、悪い意味でも。
斉藤斎藤『渡辺のわたし』
斉藤斎藤の短歌はどれも、情景的に美しさはないが共感がある。
そして、なんとなく他人の影はあるのに、その実体がない。
あくまで詠み人の意識に映った、詠み人との接点においての他人だ。
そして、その他人を通して、詠み人は自分とその意識を歌う。
しかも、それさえ純粋ではなく、輪郭がおぼろげな感触でしか捉えられない。
このもどかしさが、第一首の
お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
なのだろう。
斉藤斎藤はフィクションを拒んでいる。
自分に移る他人を、自分から浮遊させるというフィクションさえも。
それぞれのひとりをこぼさないようにあなたのうえにわたしを置いたという祈るような歌も、卑近だ。
公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように
よく言えば親近感がわくが、率直に言えば臆病に読める。
でも、その臆病さにこそ、
リアルとして主張することさえできないぐらい等身大なリアルがある。