22.9.17

チェスタトン『木曜日だった男』、斉藤斎藤『渡辺のわたし』

ギルバート・キース・チェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』

いくつか訳が出ているなかで、光文社新訳文庫の南條武則訳を択んだ。

話が現実味を帯びた舞台から空想的なふわふわした次元までいっても、
きちんと語り手が煙に巻かれずに語り続けてくれる、
そういう小説は、実はもっとも堅牢な気がする。
いい意味でも、悪い意味でも。

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

斉藤斎藤の短歌はどれも、情景的に美しさはないが共感がある。
そして、なんとなく他人の影はあるのに、その実体がない。
あくまで詠み人の意識に映った、詠み人との接点においての他人だ。
そして、その他人を通して、詠み人は自分とその意識を歌う。
しかも、それさえ純粋ではなく、輪郭がおぼろげな感触でしか捉えられない。
このもどかしさが、第一首の
お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
なのだろう。
斉藤斎藤はフィクションを拒んでいる。
自分に移る他人を、自分から浮遊させるというフィクションさえも。

それぞれのひとりをこぼさないようにあなたのうえにわたしを置いた
公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように
という祈るような歌も、卑近だ。
よく言えば親近感がわくが、率直に言えば臆病に読める。
でも、その臆病さにこそ、
リアルとして主張することさえできないぐらい等身大なリアルがある。

13.9.17

ケストナー『飛ぶ教室』、ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

池内紀訳の新潮文庫版。

大人と子ども、子ども同士、みな互いを尊重しあい信頼しあっていて、
美しい学び舎の美しい児童文学、と感じるのは、
現実世界が言葉の理解を超えたぎくしゃくに満ち溢れているからか。
でも、社会の根本は、やはり理想主義を喪ってはならない。
そう勇気づけられる思いがした。

この作品が1933年のドイツで書かれたという背景をあとがきで知ると、
大人が読んで感じ取るべき問題意識の根深さにうんざりする心地がする。
作品が描き出す社会と正反対に、市民社会の質が急速に劣化し、
ナチスドイツがぐんぐん台頭する。
経済という首ねっこを摑まれると、人はどこまでも排他的になれるのだろうか。

子どものときに読んでいたら、どう感じただろうか。
「こんな悩みのない子ども社会がドイツでは現実的なんだろうか?」と、
羨ましく思いを馳せたかもしれない。
日本の小中学校では、一人ひとりが多大に牽制しあうように空気を読んで、
はっきりものを言えない世界が広がっているから。
でも、作者がドイツで同じような社会の雰囲気で書いたともし知ったら、
それはそれは鼓舞されたことだろう。


ディーノ・ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

福音館文庫版。天沢退二郎、増山暁子訳。

クマが山を下りてシチリアを征服し、
13年の人間との暮らしを経て山へ帰るまで。
ほのぼのとした物語の進行は、愉快に歌うような文体ゆえか。
ただ、幾度かの戦いで死ぬクマや人間はいるし、
悪い奴やバッドエンドはある。
その事実を隠さない態度もまた良い。

挿絵がとてもかわいい。
しかもブッツァーティの描いたものだというから驚く。
ページいっぱいに場面全景が繰り広げられていて、
あちこちに登場人物たちのそれぞれの動きが描き込まれている。
一つの絵がたくさんのお話のそれぞれの一場面を映していて、
ブッツァーティはほんとうにお話好きな人だと、思わずにいられない。
最初の登場人物紹介のお茶目な語りっぷりからしてそうなのだが、
語って楽しませようといういたずらっぽい欲求が、挿絵から滲み出ている。