鳥居『キリンの子』
壮絶な生い立ちの歌人という怖さから、手許に置きつつもページを開けなかった。
詠み手は自己から乖離して、自分の身体を遠方から見つめている、
そのような歌がほとんどだった。
それでいて、その視覚はまっすぐなあまり私情がない。
心理小説の掌篇のような歌だ、と思った。
入水後に助けてくれた人たちは「寒い」と話す 夜の浜辺で死のうと入った海は暖かかったのだろうか。
(p.8)
陸はもっと凍えるようなところだったのだろうか。
そう問いたくて垣間見ようとする詠み手の心理が、
まったく閉ざされている。
だが、読み進めてゆくと、徐々に詠み手に感情が灯ってゆく。
私は、その熱のような実感が、このひたむきな歌人と歌集の訴えであり、救いだと感じた。
ミシェル・ウエルベック『ランサローテ島』
旅行先での淫交は『プラットフォーム』に似た筋立てだし、救済が宗教へつながる結末は『服従』に近い。
いずれにしても、読むとある意味でスカッとするが心がささくれる、
ウエルベック節が全開の小説だった。
J・M・クッツェー『モラルの話』
クッツェーはかくも対話を描く作家だったか、意外だった。それにしても、モラルなのか、
あるいは「節度」というべき何かなのか。
人が人とわかり合うとは、何なのか。
五十嵐泰正・開沼博責任編集『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』
常磐線を通して他の線路よりも語りえることがあるのだとすれば、それは「語られてこなかったこと」だ。[...]一言で言うならば「未来のなさ」ではないか。[...]常磐線に何か未来はあるのか。常磐線の路線自体もそうであるし、その沿線の地域についてもそうだ。開沼博による終章のまとめが、この一見雑駁な論集に、
(p.289〜290)
不思議と通底する何かを浮かび上がらせている。
そう、南千住、柏、水戸、日立、泉、いわき、内郷、富岡の
各駅についての論文やコラムは、
各地域の精いっぱいでちっぽけな特性を描いている。
それらは、振り回されてきた主体性のなさであり、
そうせざるをえなかった立ち位置、とでもいうべきか。
その三者三様のありさまは、結局のところ先行きのなさへ逢着する。
そして、この空気は、まさに現在の日本、いや先進国じゅうで感じられるものだ。
社会が一体性を喪い、ゆっくりと解体して、ばらばらに漂ってゆく感じ。
まさに、町ごとに異なるその解体の経過が、この論集は語っていたように思う。
町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」
Amazon kindle版。どちらも語り手が揺らぐ筋立てで、初期短篇のようだと思った。