アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』
主人公ヴィクトル、うつ病のペンギンのミーシャを中心に、
小市民らしい静かな生活が楽しく、やや物憂げに過ぎてゆく。
その背後で、関わりのある人たちが死んだり失踪したりし、
ヴィクトルの生業とする殺人予告めいた追悼記事がいったい何なのか、徐々に明らかになる。
確かにそこにあるはずの日常を人が暮らしているのに、
その当たり前が地に足のついていない宙ぶらりんで揺れている。
ヴィクトルは徐々に擬似的な家族のようなものに囲まれ、
それはままごとのようにどことなく楽しげだが、
それは単なるシェルターであって、結局は崩れる。
真実を知ったことでヴィクトルは自らを流刑に処するが、
語り手は真実への欲求を否定も肯定もしない。
ただ淡々と、なりゆきとして描く。
この口調の静けさは、因果をどうしようもなく抗いがたいものとして呈示する装置のようだ。
どうしようもない世界がわれわれの終わりのない日常に接続するきっかけが、
嘆息さえできない受け身な態度にあるかのように。
ペンギンは天皇だと思った。
自由にペタペタ動き回りながらも自由は無く、
大切にされながらも語り合う相手を欠いて、
ただペンギンとして持ち上げられ、ただ世界を哀しむだけの存在。
隈研吾『負ける建築』
ミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエは当時の建築の権威の外から登場し、
中産階級向けの郊外型個人住宅を武器として、20世紀の建築界に君臨する。
一世代前の表現主義を否定し、構成主義をも取り去り、周囲を圧倒してそれ自体で屹立する。
そのような建築は20世紀の中産階級の拡大と結託し、
商品そのものでありながら広告として流通した。
デ・ステイルの空間調和が美学的に優れていながらも結局は旧テクノロジーの域を出ず、
ミースに負けたというところは、
ちょうど国立国際美術館の「インポッシブル・アーキテクチャー」展で
エーリッヒ・メンデルスゾーンの「アインシュタイン塔」などの
不思議な優しい空間美を見ていたので、合点がいった。
蛇足だが、本著の必要以上に断定的な語り口は、
著者もまた広告的な建築家であるという一面を垣間見させる気がした。
高坂正堯『文明が衰亡するとき』
新潮選書。
もとは1981年の刊行。
アメリカの"現代"の衰退を描く視点がいかにも鼻につく"日本 as No.1"であって、
隔世の感を覚えずにいられない。
現代を早々に総括することの危険性がよく例示されている。
3つのテーマの残りはローマとヴェネツィアで、
ローマはギボンを依拠して書かれたところが大きい。
一方、ヴェネツィアが小さな都市国家ながらいかに大航海時代に君臨したか、
そのくだりは非常に興味深かった。
強力な政治体制でありながら、腐敗と恣意性を排除するためくじ引きが組み込まれており、
国家や政治は人為的というより人工的なものである、という、日本では得難い示唆を得た。
小林恭二『短歌パラダイス ─歌合 二十四番勝負─』
岩波新書。
1996年3月30日と翌31日の熱海での歌合のドキュメンタリー(?)だ。
岡井隆や高橋睦郎のような当時としても大家がいて、
当時はまだ若手だろう穂村弘や東直子も加わっている。
歌合なので、歌人たちのよる合評がおもしろい。
口角泡を飛ばすような白熱が、よくわからないがおかしな掛け合いも生むが、
はっとするような解釈をも引き出して、短歌を味わうための指南にもなっている。
家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな
は大滝和子。
本著でも絶賛されているとおり、やはり唸るような味わいがあった。
「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの
は、俵万智。
二句の静かな感情の荒れが、その作風とあまりにかけ離れた感じもあって、驚きだった。
水原紫苑が(美しいのだが)ぎりぎりよくわからない歌を詠んでいて、人物が見えた。
ミシェル・ウエルベック『セロトニン』
フランス人中年男性の研究職の人間が自己失踪して、
過去をめぐりながら、そのどこにも行き着けずに郊外で孤独な自己延命に落ち着く。
主人公のモンサントに勤めていた過去や、
有機農業に従事するものの採算が合わずに破滅的な最期を迎えるシーンなど、
グローバル経済が随所に散りばめられていて、
自由とへの強い懐疑がテーマとしてある。
が、自分がもっとも心に焼きついたのは、
かつての恋人でいまはシングルマザーとなったカミーユの居場所を突き止め、
その子どもを湖の対岸から銃殺しようとするシーンだった。
ウエルベックの小説では、世代間の絶対的な不和がよく現れる。
自由経済の世界を切り拓いたゆえに親世代を唾棄しているかのようだ。
親世代がどうしようもない世界を相続することで、子世代を嬉々として苦しめる、
その構図の連鎖が続くことをなんとか耐える、という、
おそらく本著で唯一の温かい結末に思えるからだろう。
それでいて、あまりに寒々しく、物哀しいのだが。
鄭義『神樹』
神樹が花を咲かせ、村での中国の近現代史が語られる。
それが最終的に権力によって切り倒され、村は跡形もなく消え去ってしまう。
歴史と物語は、権力によって語られることを禁じされているらしい。
さまざまなエピソードがどれもどぎつくて、読み応えがあるのに疲れてしまう。
子どもを生き埋めにする話、
木に吊るされた地主階級の身体が潰れてもなお牛のような目が睨んでいる話、
言い間違えが支部書記を一瞬にして革命敵に変じる話、……。
あとがきで作者が、どれも多かれ少なかれ現地で聞き取った事実だと明かしていて、
そのことに驚いた。神樹さえも。
ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』
偶然が織りなすできごとの描写はどれもよくできた掌編のようだし、
半生を語る文章もまた面白い。
オースターの常で、あっという間に読み終えた。
柴田元幸の訳の巧みさからか。
そして、オースターの文体は小説でなくこのような文章でも同じで、
人物描写が前面に出てからストーリーはエピソード的に語られる。
特徴的な場面が散りばめられ、感情と分析がそれを把握し説明する具合だ。