加藤治郎『短歌レトリック入門 ──修辞の旅人──』
ここ十年ぐらいだろうか、短歌の技巧性に心を奪われてきた。たやすく時空を歪ませ、思いを冴え冴えとさせ、生死に架橋する。
その技巧性を知りたかったし、文学一般へ流しこみたいとさえ思った。
それでも、名歌はそれ自体として成り立っていて、技巧に負うものではない。
そのもがき苦しむ先にやっと短歌は成るのだと、よくわかった。
宇宙とふ無音の量を思ふときわれ在ることの〈声〉のごとしも大塚寅彦『声』
という歌があって、震えるような感慨に見舞われた。
柳田國男『地名の研究』
地名を探るのに字名をまずとらえるべきという考え方はまったく首肯するところだが、
不思議と指摘されなければ気づかない。
現代、字名は地番表示でわずかに意識されるか否かの境にあるし、
それを書いた粗雑な住居表示はのっぺりと地図を一色に覆うためだけにあるかのようだ。
それにしても、その由来を問う洞察の深さには驚かされる。
何度読み返しても新鮮に読めそうな、あまりに情報の多い論考だった。
アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』
光文社古典新訳文庫版、中条省平訳。
センセーショナルな文学作品という文学史的位置づけにしては異様に読みやすくて、
正直、拍子抜けした。そして、面白さに引き込まれた。
モノの細部のわずかな差異がいつの間にか大きな裂け目となって、
主人公と読者を引きずり込む、そんな印象の読後感を持った。
カフェの主人が小説の結末で失語に陥る様子、
これはまさに人間が機械となる暗示でもあれば、
どこか円環的な不気味な印象でもあった。
矢野健太郎『数学の考え方』
講談社学術文庫版。
子どもが2歳にして数学の絵本に夢中なので、
自分も教養程度の数学史は頭に入れておこうと読んだ。
非ユークリッド幾何学や仮定法は、中等教育の数学で教わった記憶がないので面白かった。
一方、現代数学については歴史を触れる程度で、物足りなさを感じた。
四方田犬彦『ハイスクール1968』
新潮文庫版。
おそらく自分は2003年の文芸誌『新潮』に初出が発表されているのを見ている。
手に取っていながらも、読んでいなかったことが悔やまれる。
当時の自分はまさに高校生だったからだ。
あるいは、読んでいたら自らの境遇に失望したかもしれない。
概して知の営みを欠いて受験勉強に邁進するという愚かな高校に沙漠を感じていたし、
時代のダイナミズムもなければ作者ほどの読書量も無い、
圧倒的な敗北感に恥じ入ったかもしれない。
いずれにせよ、当時に読んでいれば、進学先に東京を択んだかもしれない。
読んでいて、自分も遅れて夢中になった著者や著作が散りばめられていて楽しかったし、
ともかく羨ましい、その思いだった。
自分は我が身を糾すような高校紛争を経ていないし、類する機会もなかった。
まったく、自分は高校時代、生半可な読書に勤しんだ以外、何もしていなかった、
そう突き詰めざるを得ない。
四方田犬彦『先生とわたし』
これも新潮文庫版。
分析的かつ軽やかな文体が好ましくて、次作にあたった。
私は大学院に進学していないが、
仮に院生だったことがあったとしても、
由良君美と四方田剛己のような師弟関係は得られなかっただろう。
そもそも、現在において、
人間関係といいFDといい自己評価だの認証評価だのに雁字搦めの大学という場で、
師弟関係はあり得るのかさえわからない。
知の巨人に直に触れ、それでもなお焼き尽くされずについてゆく著者の能力に驚く。
山折哲雄『教えること、裏切られること 師弟関係の本質』
講談社現代新書。
前掲書に挙げられていたので読む。
確かに、師弟関係とは、最終的に裏切られることを前提としている構造だ。
俗にもいうではないか。弟子は師を越えなければならぬ、しかし師は弟子をして簡単にその頭上を越えさせてはならぬ、と。(18p)
その攻防がさまざまな師弟関係、いや生々しい人間関係に転移する。