ジョン・アーヴィング『未亡人の一年』
新潮文庫版。
上下巻だがどんどん読ませて、あっという間に読了という面白さ。
過去との和解というテーマは最近のありがちなテーマながら、
小説というジャンルにおいては宿命のテーマでもあるように思われる。
結末が息を呑むほど美しい。
ハナは間違っていた、とエディにはわかった。時間が止まるときがあるのだ。その瞬間を見逃さないように、しっかりと注意していなくてはならない。
実際この小説の主題は、時の堆積する豊かさだ。
時は流し去ってゆきもすれば、モチーフとして心に残る。
四方田犬彦『歳月の鉛』
知性の遍歴時代の記録。
知の巨人たちはすでにほぼ完成された状態で出現するので、
その成立に触れる機会は貴重だし、
その点で、もっと早くに読んでいればよかったと悔やむ。
ただ、東大生は授業ごとに講師の趣向に通じては
迎合する傾向があるのではないか、という推察から、
いろいろな意味で忌避した自分の過去は間違っていなかった。
原武史『「鉄学」概論 車窓から眺める日本近現代史』
阪急電鉄がいかに省線・国鉄に対して独立不羈の態度を取ったか、
梅田駅の変遷や逸翁美術館の収蔵品からも読み解くくだりは面白かった。
西武沿線の団地開発と左翼運動において、
ソ連視察を経た日本住宅公団が平坦で同質的な風景にこれまた画一的な団地を建設する、
この阪急や東急とは違った結果論的な街づくりの帰結もまた、あまり語られないだけに面白かった。
新宿駅の変遷は著者の幼い視線を通して共感できるものだったし、
「順法闘争」へのサラリーマン暴動は日本の社畜精神の根強さだと思うと気持が暗くなった。
都電から地下鉄への近距離交通手段の移行は、
確かに半蔵門をはじめとして東京のイコンを実体から記号へと変えただろう。
著者は箕面の下で四方田犬彦を挙げたり、
『滝山コミューン一九七四』を著したり、
同じ勤務先でもある四方田犬彦を意識しているのではないか、とふと感じた。
岡本夏木『幼児期 子どもは世界をどうつかむか』
子どもの主体が世界とその媒介たる大人をどう捉えて把握するか、
その観点に徹して記され、
その点で、躾、遊び、表現、言葉についての議論が展開される。
外形的な出来や不出来に捉われず、その奥にある眼差しを捉えよ、と著者は説く。
つまり、アウトプットにこだわってはならない、と。
この考え方は、成果主義に根深く律せられた現代社会に生きる身に非常に難しい。
この視座の奥には、井深大『幼稚園からでは遅すぎる』の説く早期教育への懸念、
過程を大切にして見守ってゆくことの大切さがある。
例えば、三、四歳頃の表現活動について、こう語られる。
まだ長時間表現にうちこむことは稀としても、好きな活動にはかなり没頭し、表現活動の中で時間を忘れ、我を忘れることが出てくるのもこの時期です。それは「忘我」というよりも、最高度に自己の全体を発揮している行為主体としての姿であると言えるかもしれません。この過程の経験、それは人間のもつ全体性、身体性や情動感覚やイメージ、自他の関係、状況性、文化性が不可分なまま一体化してそこに参入してきている、原初的な体験に他なりません。[…]このように、過程そのものが結果とは一応独立したところで意味をもってくる経験には、表現の場合に限らず、その後の子どもの生活、いや一生にわたって、いろいろな形で遭遇することになります。(p.127)
子どものふるまいはすべて、自らの外部と、
いやそれだけでなく自分の内との干渉下での臨機応変な対応であり、
それ自体が目的的なものである。
その観点から面白いと思ったのは、表現に関する言及で、
幼児にたとえば、誕生日のケーキを前にして女の子が喜んでいる場面と、泣いている場面を与えて話を作らせると、後者の場合の方が圧倒的に豊富な創造を含んだ物語を生み出してゆきます。つまり常識的な場面より、それを矛盾する場面での方が、その矛盾を埋めるべく表現力や想像力が動員されるわけです。(p.137)
学習と経験によって大量のノウハウを身につけた大人には無い緊張感を、
子どもは持っている。想像力とはそういうことなのだ。
子どもは育てるのではなく育つのであり、大人は環境として関わるのだ。
この役割を親は忘れてはならないと思う。
ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』
時とは何か、老いとは何か。そして、老いた身にかつてあった過去とは何か──。
確かに過去を生きたはずなのに、指の間を落ちてゆき消えるような哀れで惨めな感覚。
主人公は恋人に乗り換えられた友人を呪詛した、
そのかつての若い過ちに老いてから気づく。
ふと投げた言葉が人生全体を暗く覆い、身に降りかかる、
この因果律はオイディプス王をも思わせた。