22.12.20

アーヴィング『未亡人の一年』、四方田犬彦『歳月の鉛』、原武史『「鉄学」概論』、岡本夏木『幼児期』、バーンズ『終わりの感覚』

ジョン・アーヴィング『未亡人の一年』

新潮文庫版。
上下巻だがどんどん読ませて、あっという間に読了という面白さ。

過去との和解というテーマは最近のありがちなテーマながら、
小説というジャンルにおいては宿命のテーマでもあるように思われる。

結末が息を呑むほど美しい。
ハナは間違っていた、とエディにはわかった。時間が止まるときがあるのだ。その瞬間を見逃さないように、しっかりと注意していなくてはならない。
実際この小説の主題は、時の堆積する豊かさだ。
時は流し去ってゆきもすれば、モチーフとして心に残る。


四方田犬彦『歳月の鉛』

知性の遍歴時代の記録。
知の巨人たちはすでにほぼ完成された状態で出現するので、
その成立に触れる機会は貴重だし、
その点で、もっと早くに読んでいればよかったと悔やむ。

ただ、東大生は授業ごとに講師の趣向に通じては
迎合する傾向があるのではないか、という推察から、
いろいろな意味で忌避した自分の過去は間違っていなかった。


原武史『「鉄学」概論 車窓から眺める日本近現代史』

阪急電鉄がいかに省線・国鉄に対して独立不羈の態度を取ったか、
梅田駅の変遷や逸翁美術館の収蔵品からも読み解くくだりは面白かった。
西武沿線の団地開発と左翼運動において、
ソ連視察を経た日本住宅公団が平坦で同質的な風景にこれまた画一的な団地を建設する、
この阪急や東急とは違った結果論的な街づくりの帰結もまた、あまり語られないだけに面白かった。
新宿駅の変遷は著者の幼い視線を通して共感できるものだったし、
「順法闘争」へのサラリーマン暴動は日本の社畜精神の根強さだと思うと気持が暗くなった。
都電から地下鉄への近距離交通手段の移行は、
確かに半蔵門をはじめとして東京のイコンを実体から記号へと変えただろう。

著者は箕面の下で四方田犬彦を挙げたり、
『滝山コミューン一九七四』を著したり、
同じ勤務先でもある四方田犬彦を意識しているのではないか、とふと感じた。


岡本夏木『幼児期 子どもは世界をどうつかむか』

子どもの主体が世界とその媒介たる大人をどう捉えて把握するか、
その観点に徹して記され、
その点で、躾、遊び、表現、言葉についての議論が展開される。
外形的な出来や不出来に捉われず、その奥にある眼差しを捉えよ、と著者は説く。
つまり、アウトプットにこだわってはならない、と。
この考え方は、成果主義に根深く律せられた現代社会に生きる身に非常に難しい。

この視座の奥には、井深大『幼稚園からでは遅すぎる』の説く早期教育への懸念、
過程を大切にして見守ってゆくことの大切さがある。
例えば、三、四歳頃の表現活動について、こう語られる。
まだ長時間表現にうちこむことは稀としても、好きな活動にはかなり没頭し、表現活動の中で時間を忘れ、我を忘れることが出てくるのもこの時期です。それは「忘我」というよりも、最高度に自己の全体を発揮している行為主体としての姿であると言えるかもしれません。この過程の経験、それは人間のもつ全体性、身体性や情動感覚やイメージ、自他の関係、状況性、文化性が不可分なまま一体化してそこに参入してきている、原初的な体験に他なりません。[…]このように、過程そのものが結果とは一応独立したところで意味をもってくる経験には、表現の場合に限らず、その後の子どもの生活、いや一生にわたって、いろいろな形で遭遇することになります。(p.127)
子どものふるまいはすべて、自らの外部と、
いやそれだけでなく自分の内との干渉下での臨機応変な対応であり、
それ自体が目的的なものである。
その観点から面白いと思ったのは、表現に関する言及で、
幼児にたとえば、誕生日のケーキを前にして女の子が喜んでいる場面と、泣いている場面を与えて話を作らせると、後者の場合の方が圧倒的に豊富な創造を含んだ物語を生み出してゆきます。つまり常識的な場面より、それを矛盾する場面での方が、その矛盾を埋めるべく表現力や想像力が動員されるわけです。(p.137)
学習と経験によって大量のノウハウを身につけた大人には無い緊張感を、
子どもは持っている。想像力とはそういうことなのだ。

子どもは育てるのではなく育つのであり、大人は環境として関わるのだ。
この役割を親は忘れてはならないと思う。


ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』

時とは何か、老いとは何か。そして、老いた身にかつてあった過去とは何か──。
確かに過去を生きたはずなのに、指の間を落ちてゆき消えるような哀れで惨めな感覚。

主人公は恋人に乗り換えられた友人を呪詛した、
そのかつての若い過ちに老いてから気づく。
ふと投げた言葉が人生全体を暗く覆い、身に降りかかる、
この因果律はオイディプス王をも思わせた。

5.11.20

加藤治郎『短歌レトリック入門』、柳田國男『地名の研究』、ロブ=グリエ『消しゴム』、矢野健太郎『数学の考え方』、四方田犬彦『ハイスクール1968』『先生とわたし』、山折哲雄『教えること、裏切られること』

加藤治郎『短歌レトリック入門 ──修辞の旅人──』

ここ十年ぐらいだろうか、短歌の技巧性に心を奪われてきた。
たやすく時空を歪ませ、思いを冴え冴えとさせ、生死に架橋する。
その技巧性を知りたかったし、文学一般へ流しこみたいとさえ思った。
それでも、名歌はそれ自体として成り立っていて、技巧に負うものではない。
そのもがき苦しむ先にやっと短歌は成るのだと、よくわかった。

宇宙とふ無音の量を思ふときわれ在ることの〈声〉のごとしも
大塚寅彦『声』
という歌があって、震えるような感慨に見舞われた。

柳田國男『地名の研究』

地名を探るのに字名をまずとらえるべきという考え方はまったく首肯するところだが、
不思議と指摘されなければ気づかない。
現代、字名は地番表示でわずかに意識されるか否かの境にあるし、
それを書いた粗雑な住居表示はのっぺりと地図を一色に覆うためだけにあるかのようだ。
それにしても、その由来を問う洞察の深さには驚かされる。
何度読み返しても新鮮に読めそうな、あまりに情報の多い論考だった。

アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』

光文社古典新訳文庫版、中条省平訳。
センセーショナルな文学作品という文学史的位置づけにしては異様に読みやすくて、
正直、拍子抜けした。そして、面白さに引き込まれた。

モノの細部のわずかな差異がいつの間にか大きな裂け目となって、
主人公と読者を引きずり込む、そんな印象の読後感を持った。
カフェの主人が小説の結末で失語に陥る様子、
これはまさに人間が機械となる暗示でもあれば、
どこか円環的な不気味な印象でもあった。


矢野健太郎『数学の考え方』

講談社学術文庫版。
子どもが2歳にして数学の絵本に夢中なので、
自分も教養程度の数学史は頭に入れておこうと読んだ。

非ユークリッド幾何学や仮定法は、中等教育の数学で教わった記憶がないので面白かった。
一方、現代数学については歴史を触れる程度で、物足りなさを感じた。

四方田犬彦『ハイスクール1968』

新潮文庫版。
おそらく自分は2003年の文芸誌『新潮』に初出が発表されているのを見ている。
手に取っていながらも、読んでいなかったことが悔やまれる。
当時の自分はまさに高校生だったからだ。
あるいは、読んでいたら自らの境遇に失望したかもしれない。
概して知の営みを欠いて受験勉強に邁進するという愚かな高校に沙漠を感じていたし、
時代のダイナミズムもなければ作者ほどの読書量も無い、
圧倒的な敗北感に恥じ入ったかもしれない。
いずれにせよ、当時に読んでいれば、進学先に東京を択んだかもしれない。

読んでいて、自分も遅れて夢中になった著者や著作が散りばめられていて楽しかったし、
ともかく羨ましい、その思いだった。
自分は我が身を糾すような高校紛争を経ていないし、類する機会もなかった。
まったく、自分は高校時代、生半可な読書に勤しんだ以外、何もしていなかった、
そう突き詰めざるを得ない。


四方田犬彦『先生とわたし』

これも新潮文庫版。
分析的かつ軽やかな文体が好ましくて、次作にあたった。

私は大学院に進学していないが、
仮に院生だったことがあったとしても、
由良君美と四方田剛己のような師弟関係は得られなかっただろう。
そもそも、現在において、
人間関係といいFDといい自己評価だの認証評価だのに雁字搦めの大学という場で、
師弟関係はあり得るのかさえわからない。

知の巨人に直に触れ、それでもなお焼き尽くされずについてゆく著者の能力に驚く。

山折哲雄『教えること、裏切られること 師弟関係の本質』

講談社現代新書。
前掲書に挙げられていたので読む。

確かに、師弟関係とは、最終的に裏切られることを前提としている構造だ。
俗にもいうではないか。弟子は師を越えなければならぬ、しかし師は弟子をして簡単にその頭上を越えさせてはならぬ、と。(18p)
その攻防がさまざまな師弟関係、いや生々しい人間関係に転移する。

18.8.20

クルコフ『ペンギンの憂鬱』、隈研吾『負ける建築』、高坂正堯『文明が衰亡するとき』、小林恭二『短歌パラダイス』、ウエルベック『セロトニン』、鄭義『神樹』、オースター『トゥルー・ストーリーズ』

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』

主人公ヴィクトル、うつ病のペンギンのミーシャを中心に、
小市民らしい静かな生活が楽しく、やや物憂げに過ぎてゆく。
その背後で、関わりのある人たちが死んだり失踪したりし、
ヴィクトルの生業とする殺人予告めいた追悼記事がいったい何なのか、徐々に明らかになる。

確かにそこにあるはずの日常を人が暮らしているのに、
その当たり前が地に足のついていない宙ぶらりんで揺れている。
ヴィクトルは徐々に擬似的な家族のようなものに囲まれ、
それはままごとのようにどことなく楽しげだが、
それは単なるシェルターであって、結局は崩れる。

真実を知ったことでヴィクトルは自らを流刑に処するが、
語り手は真実への欲求を否定も肯定もしない。
ただ淡々と、なりゆきとして描く。
この口調の静けさは、因果をどうしようもなく抗いがたいものとして呈示する装置のようだ。
どうしようもない世界がわれわれの終わりのない日常に接続するきっかけが、
嘆息さえできない受け身な態度にあるかのように。

ペンギンは天皇だと思った。
自由にペタペタ動き回りながらも自由は無く、
大切にされながらも語り合う相手を欠いて、
ただペンギンとして持ち上げられ、ただ世界を哀しむだけの存在。

隈研吾『負ける建築』

ミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエは当時の建築の権威の外から登場し、
中産階級向けの郊外型個人住宅を武器として、20世紀の建築界に君臨する。
一世代前の表現主義を否定し、構成主義をも取り去り、周囲を圧倒してそれ自体で屹立する。
そのような建築は20世紀の中産階級の拡大と結託し、
商品そのものでありながら広告として流通した。

デ・ステイルの空間調和が美学的に優れていながらも結局は旧テクノロジーの域を出ず、
ミースに負けたというところは、
ちょうど国立国際美術館の「インポッシブル・アーキテクチャー」展で
エーリッヒ・メンデルスゾーンの「アインシュタイン塔」などの
不思議な優しい空間美を見ていたので、合点がいった。

蛇足だが、本著の必要以上に断定的な語り口は、
著者もまた広告的な建築家であるという一面を垣間見させる気がした。

高坂正堯『文明が衰亡するとき』

新潮選書。
もとは1981年の刊行。
アメリカの"現代"の衰退を描く視点がいかにも鼻につく"日本 as No.1"であって、
隔世の感を覚えずにいられない。
現代を早々に総括することの危険性がよく例示されている。

3つのテーマの残りはローマとヴェネツィアで、
ローマはギボンを依拠して書かれたところが大きい。
一方、ヴェネツィアが小さな都市国家ながらいかに大航海時代に君臨したか、
そのくだりは非常に興味深かった。
強力な政治体制でありながら、腐敗と恣意性を排除するためくじ引きが組み込まれており、
国家や政治は人為的というより人工的なものである、という、日本では得難い示唆を得た。

小林恭二『短歌パラダイス ─歌合 二十四番勝負─』

岩波新書。
1996年3月30日と翌31日の熱海での歌合のドキュメンタリー(?)だ。
岡井隆や高橋睦郎のような当時としても大家がいて、
当時はまだ若手だろう穂村弘や東直子も加わっている。

歌合なので、歌人たちのよる合評がおもしろい。
口角泡を飛ばすような白熱が、よくわからないがおかしな掛け合いも生むが、
はっとするような解釈をも引き出して、短歌を味わうための指南にもなっている。

家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな
は大滝和子。
本著でも絶賛されているとおり、やはり唸るような味わいがあった。
「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの
は、俵万智。
二句の静かな感情の荒れが、その作風とあまりにかけ離れた感じもあって、驚きだった。
水原紫苑が(美しいのだが)ぎりぎりよくわからない歌を詠んでいて、人物が見えた。

ミシェル・ウエルベック『セロトニン』

フランス人中年男性の研究職の人間が自己失踪して、
過去をめぐりながら、そのどこにも行き着けずに郊外で孤独な自己延命に落ち着く。
主人公のモンサントに勤めていた過去や、
有機農業に従事するものの採算が合わずに破滅的な最期を迎えるシーンなど、
グローバル経済が随所に散りばめられていて、
自由とへの強い懐疑がテーマとしてある。
が、自分がもっとも心に焼きついたのは、
かつての恋人でいまはシングルマザーとなったカミーユの居場所を突き止め、
その子どもを湖の対岸から銃殺しようとするシーンだった。
ウエルベックの小説では、世代間の絶対的な不和がよく現れる。
自由経済の世界を切り拓いたゆえに親世代を唾棄しているかのようだ。
親世代がどうしようもない世界を相続することで、子世代を嬉々として苦しめる、
その構図の連鎖が続くことをなんとか耐える、という、
おそらく本著で唯一の温かい結末に思えるからだろう。
それでいて、あまりに寒々しく、物哀しいのだが。

鄭義『神樹』

神樹が花を咲かせ、村での中国の近現代史が語られる。
それが最終的に権力によって切り倒され、村は跡形もなく消え去ってしまう。
歴史と物語は、権力によって語られることを禁じされているらしい。

さまざまなエピソードがどれもどぎつくて、読み応えがあるのに疲れてしまう。
子どもを生き埋めにする話、
木に吊るされた地主階級の身体が潰れてもなお牛のような目が睨んでいる話、
言い間違えが支部書記を一瞬にして革命敵に変じる話、……。
あとがきで作者が、どれも多かれ少なかれ現地で聞き取った事実だと明かしていて、
そのことに驚いた。神樹さえも。

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

偶然が織りなすできごとの描写はどれもよくできた掌編のようだし、
半生を語る文章もまた面白い。

オースターの常で、あっという間に読み終えた。
柴田元幸の訳の巧みさからか。
そして、オースターの文体は小説でなくこのような文章でも同じで、
人物描写が前面に出てからストーリーはエピソード的に語られる。
特徴的な場面が散りばめられ、感情と分析がそれを把握し説明する具合だ。

19.4.20

尾崎翠「第七官界彷徨」、アガンベン『例外状態』

尾崎翠「第七官界彷徨」

優しい雰囲気と心理戦のある内田百閒作品、といった読後感だった。
ストーリーがあるようで無く、読み返せばおそらく楽しい、
そういう叙事詩のような小説だった。

ジョルジョ・アガンベン『例外状態』

例外状態がいよいよ始まろうとする3月下旬の三連休、
梅田の人出の多さに行く末の恐ろしさを案じつつ書店で見つけ、
その後、入手し、辛くも読み切ることができた。
とはいえ、3割も理解できていないだろう。
以下、断片的なメモ。

第2章までで、例外状態における法秩序がいかに
例外状態を掌中に入れて操作対象とするかが、示される。
例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。しかしながら、ここでは決定は規範の無化そのものにかかわっているかぎりで、すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉することであるかぎりで、「主権者は、通常の状態において効力を発揮している法秩序の外にある(steht ausserhalb)が、しかしまた、憲法が全体として停止されうるかいなかの決定に責任を負っているために、その秩序に属している(gehört)のである」(ibid., p. 13)。
 法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。(p.70)
第4章の、ベンヤミンの「暴力批判論」とシュミットの『政治神学』の対比は、
非常に面白かった。
あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。(p.110)
引用以下、ベンヤミンの文章を精緻に分析する作業が、
ベンヤミンとシュミットの論争の行方そのものへ帰着するという、
ダイナミックな地の営みが開示されていて、読み応えがあった。

古代ローマの法停止「ユースティティウム(iustitium)」が服喪と同一化したこと、
カーニヴァルが古代の追放や迫害という制度の残余であること、が紹介され、
法は対立するはずのアノミーと手を組むことで生を包含していることが明かされる。

最終章「権威と権限」では、
古代ローマの元老院が権限を有さず権威によって君臨した事実を傍証として、
権限が権威によって効力を持つということが示され、
メタ法的、アノミー的な「権威」と、法規範としての「権限」の二元が、
まとめとして集約、定義される。

最後に。
法律は欠缺を有しうるが、法=権利は欠缺を認めないとする原則からの類推で、例外状態も公法におけるひとつの欠缺というように解釈され、執行権力がその救済策を講じる義務を有するとされるのである。司法権力にかかわる原則が、こうして執行権力に拡張されるのだ。[...]ここで言われている欠缺は、裁判官によって補充されるべき立法文書における欠落にかかわるものではない。それはむしろ、法秩序の存在を保証するためになされる現行の法秩序の停止と関係しているのだ。例外状態は、規範の欠缺に対応するためにではなく、規範の存在と通常の状況へのその適用可能性を救済する目的で、法秩序のなかにひとつの擬制的な欠缺を開示しようとするものとして現れるのである。欠缺は法律に内在しているのではなくて、法律と現実との関係、法律の適用可能性それ自体と関係したものなのだ。(p.64)
この展開、柄谷行人みたいで、わくわくした。

13.1.20

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、タタレッラ『Natural Architecture Now』、矢部史郎『夢みる名古屋』

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

循環小数のような小説。
谷崎潤一郎の状況説明的な文体が、
猫を焦点としてぐるぐる回ってゆく感じ。

フランチェスカ・タタレッラ『Natural Architecture Now ナチュラル アーキテクチャーの現在』

挙げられている構造物は、建築というよりインスタレーションというべきだ。
多くは屋根を持たないし、
建築としての最低条件たる空間を区切る役割さえ十分に果たさない。
しかし、それゆえに、建築に対する異議申し立てのように語る。
それが面白かった。

特に、アルネ・ケーンズによる木材組みのインスタレーションは、
最後に火を放たれて燃える、という作品だった。
建築が静ならば、ナチュラル・アーキテクチャーは動だし、
剛に対して柔、永に対して瞬だ。
そこには、出会いのようなはかなくも強い印象がある。

矢部史郎『夢みる名古屋 ユートピア空間の形成史』

現代書館・刊。
あとがきで筆者が述べているように、都市論だ。
日本の、あるいは世界中の都市が、
どのように人間に対して構成されてきたかを分析する。
都市の成分を三つの地層に分解すること、すなわち、近代都市計画・モータリゼーション・ジェントリフィケーションを、それぞれに独立した系として考察することは、[...]。そして名古屋の都市構造が、この三つを非常に見えやすい状態で提示していることに驚いた。(p.219)
そのなかでも、日本的な近代化を端的に示していると思われたのが、次の一節。
ここでは、近代化によって近世的なものが崩されていくのではなく、反対に、近世的なものを束ねることによって近代化がめざされていく。近世的な社会と意識が払拭されることはない。近世は保存されながら、近代性へ統合されていくのである。内務省と産業資本が近世的意識を統合し、都市開発と兵器生産に没頭する。行政と産業資本、小地主、小ブルジョアジー、産業労働者、そして軍部が、有機的に結合していく。ファシズムの時代の標本ともいうべき構図が、名古屋にはあらわれていた。(p.41)
マルクスが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で引用した、
ヘーゲルの「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」を思わせるが、
日本ではやや違っていて、繰り返すのは歴史ではなく近世だ。
古臭い存在が鵺のように生き延びて、
時代時代に合わせた夢を見るようにして歴史を生成する。
天皇制がまさしくそうだし、財閥の存在もそうだ。

小牧インターチェンジを議論の端緒として、
工業化の内陸化と不可視化を論じる議論は、面白かった。
1978年12月に発生した口裂け女の怪談が、
異常な緊迫感を持って全国に波及する、その裏づけとしての、
人ではなく車を尺度として構築された街の行き場のなさは、
思わず頷かされた。