尾崎翠「第七官界彷徨」
優しい雰囲気と心理戦のある内田百閒作品、といった読後感だった。ストーリーがあるようで無く、読み返せばおそらく楽しい、
そういう叙事詩のような小説だった。
ジョルジョ・アガンベン『例外状態』
例外状態がいよいよ始まろうとする3月下旬の三連休、梅田の人出の多さに行く末の恐ろしさを案じつつ書店で見つけ、
その後、入手し、辛くも読み切ることができた。
とはいえ、3割も理解できていないだろう。
以下、断片的なメモ。
第2章までで、例外状態における法秩序がいかに
例外状態を掌中に入れて操作対象とするかが、示される。
例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。しかしながら、ここでは決定は規範の無化そのものにかかわっているかぎりで、すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉することであるかぎりで、「主権者は、通常の状態において効力を発揮している法秩序の外にある(steht ausserhalb)が、しかしまた、憲法が全体として停止されうるかいなかの決定に責任を負っているために、その秩序に属している(gehört)のである」(ibid., p. 13)。第4章の、ベンヤミンの「暴力批判論」とシュミットの『政治神学』の対比は、
法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。(p.70)
非常に面白かった。
あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。(p.110)引用以下、ベンヤミンの文章を精緻に分析する作業が、
ベンヤミンとシュミットの論争の行方そのものへ帰着するという、
ダイナミックな地の営みが開示されていて、読み応えがあった。
古代ローマの法停止「ユースティティウム(iustitium)」が服喪と同一化したこと、
カーニヴァルが古代の追放や迫害という制度の残余であること、が紹介され、
法は対立するはずのアノミーと手を組むことで生を包含していることが明かされる。
最終章「権威と権限」では、
古代ローマの元老院が権限を有さず権威によって君臨した事実を傍証として、
権限が権威によって効力を持つということが示され、
メタ法的、アノミー的な「権威」と、法規範としての「権限」の二元が、
まとめとして集約、定義される。
最後に。
法律は欠缺を有しうるが、法=権利は欠缺を認めないとする原則からの類推で、例外状態も公法におけるひとつの欠缺というように解釈され、執行権力がその救済策を講じる義務を有するとされるのである。司法権力にかかわる原則が、こうして執行権力に拡張されるのだ。[...]ここで言われている欠缺は、裁判官によって補充されるべき立法文書における欠落にかかわるものではない。それはむしろ、法秩序の存在を保証するためになされる現行の法秩序の停止と関係しているのだ。例外状態は、規範の欠缺に対応するためにではなく、規範の存在と通常の状況へのその適用可能性を救済する目的で、法秩序のなかにひとつの擬制的な欠缺を開示しようとするものとして現れるのである。欠缺は法律に内在しているのではなくて、法律と現実との関係、法律の適用可能性それ自体と関係したものなのだ。(p.64)この展開、柄谷行人みたいで、わくわくした。
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