21.3.18

夏目漱石「野分」、団藤重光『法学の基礎』

夏目漱石「野分」

教訓めいたところが「虞美人草」に近いと感じたが、同年の著作らしい。
もっとも、理想と現実の相容れなさを
やや突き放して描く漱石らしさは変わらない。

団藤重光『法学の基礎 [第2版]』

人間の主体性を重視し、市民社会の発展を願う書き口で、
地に足のついた良識派の学者という以上に訴えるものがある。
だから第一に、法が「われわれのもの」と語られるし、
「法は人間の営みである」(p.141)から、
法がつくられるニーズや駆け引き、
さらには生物学的な層、経済学的な層、といった
マルクスの上部・下部構造やフェーブルの歴史構造のようなものも説く。
部分を押さえつつ全体を見て、現実を見据えたうえで理想を目指す、
そのような、法を内部からではなく外部からも語る、
まさに法を知るための入門書としてふさわしく、読み応えがあった。
何より、法と法学のダイナミズムがよくわかった。
個人的には、英米法的な視座が体得できたように思う。

法学を訓詁学と捉えていた大学時代に出会っていたかった。

6.3.18

義江彰夫『神仏習合』、森鷗外「高瀬舟」「山椒大夫」

義江彰夫『神仏習合』



つまるところ神仏習合は、
支配階級の場当たり的で宥和的な後づけの論理によって、結果論的に形成された。
そのどっちつかずで見通しのつかないままできあがってしまった歴史は、
いかにも日本らしい。
本音と建前の併存が染みついている。

以下、内容の概要。
各地方の支配階級が私営田領主として富裕化したため、
共同体本位の呪術的な神事がもはや支配の裏づけとならなくなった。
よって、8世紀後半、雑密の遊行僧が仲立って、
土着神の仏教帰依という形で神宮寺がつくられ始める。
朝廷は、神事による支配への逆戻りはできないため、
神宮寺の公認による支配へと方針転換する。
10世紀、租税が神祇的な奉納の意味づけから封建的制度へ転換され、
王朝国家体制下の社会的、身分的な不満が怨霊信仰となり、
密教は王権を相対化する理論として後ろ盾となった。
また、律令体制から王朝国家体制へと移り変わるなかで、


王権はケガレ忌避の観念が神祇から日常生活にまで拡大することで、
貴族社会そのものを神聖化し、日本固有の祭祀観念として密教に対峙した。
その時代背景が、従来の穢れた「黄泉の国」ではなく極楽浄土を説く
阿弥陀浄土信仰と結託し、阿弥陀信仰が貴族社会に浸透する。
仏教が神道を包摂した結果、平安末以降の本地垂迹説が登場し、
日本神話そのものを仏教が前提として存続する。

神道は仏教という外圧があってはじめて体制をなした。
だから、神仏分離や純粋な神道というものは、どだい無理な話だ。
少なくとも律令期まで遡る必要があるし、
それさえ各共同体の祖先崇拝が国家-地方間に編成された論理だ。
今も昔も国家宗教は支配の論理であり、伝統が騙る裏には必ず意図がある。

岩波新書版。

森鷗外「高瀬舟」

欲望の充足と、安楽死について。
二つのテーマは、「何も持たないこと」という共通項で貫かれている。
何も(欲望も)持たないから二百文は喜ばしい貯蓄だし、
安楽死とその罰としての島流しは、此岸にしがらみがないゆえだ。
すると、持つことの二重性が問われる。
持つ者はさらに持とうとし、さらに身動きが取れなくなる、と。

青空文庫版。

森鷗外「山椒大夫」

厨子王は貧しい暮らしから、奴婢となり、僧となり、国司となる。
物語は絶えず場面を移動させ、厨子王の立場を転がし、
しかし、父母への思いだけは変わらない。
ロードムービーのようだと思った。

青空文庫版。