24.11.19

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代』、山口創『子育てに効くマインドフルネス』、高橋惠子『子育ての知恵』、中村隆英『日本の経済統制』

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』

都市を焼け野原と化しめた空襲はもちろんのこと、
戦時改描、不要不急線、建物疎開、軍事施設の戦後利用など、
ある程度の知識はあった。
が、地図が実際に証拠づけている様子が解説されるのは、
上意下達と現場の当時のせめぎ合いが浮かんでくるようでもあった。
また、朝鮮、台湾、満洲といった“外地”の地図では、
租界や出自ごとの地割といった大日本帝国の論理や、
移住者の郷愁の滲む都道府県名の字名など、
日本人によって遠慮なく振りかざされた痕が露骨に残っていて、
日本人の気質が気恥ずかしいほどよくわかる気がした。

著者の文章は直截で澱みなく、読み物としてもスラスラ読めて面白い。


山口創『子育てに効くマインドフルネス 親が変わり、子どもも変わる』

光文社新書ということで手に取って読んだが、
スピリチュアル系の香りが立つ。
目の前で起きている問題を客観視し整理するには役立つかもしれないが、
どうコミットするのかは考慮の外に置いている。
気の持ちようとしての参考にはなるかもしれなかった。


高橋惠子『子育ての知恵 幼児のための心理学』

岩波新書。
タイトルのとおり、子育ての折々で参照したいような一冊だった。

ボウルビィの「愛着」概念と社会での誤った受容は、勉強になった。
幼児の人間関係の多重性については、
やはり子どもも人間であり、社会的存在なのだ、と感心し、
親権を振るうべき対象ではなく個として尊重するべき、という
当たり前のことを改めて実感した。
「あなたの子どもは、あなたの子どもではありません」という
デンマークの標語が紹介されていて、
その人権意識はまったく日本に欠けるものだ。

「母親が一番」といった根強い母親神話や、
「三つ子の魂百まで」という俗説まで、
科学的な知見を以て冷静に分析し、断じている。
これこそ社会や政治への科学の面目躍如、と読んでいて痛快だった。


中村隆英『日本の経済統制 戦時・戦後の経験と教訓』

『古川ロッパ昭和日記』を読み進める上で、
戦時中の経済体制について知りたくなり、読んだ。

金本位体制での国際収支の均衡という制約のなかで、
軍備拡大のために経済統制をする、というポスト大正期のイデオロギーが、
いかにして机上で練られたあげく陸海軍省の権威とともに実現され、
民需を圧迫して破滅していったか。
裏から、石原莞爾の「世界最終戦論」と、米国不参戦と、
根拠のない前提が雰囲気的に蔓延していた、という思考停止状況も手伝う。
経済統制は画一的で徹底的であり、その描写は笑ってしまうほどだ。
先祖の身に起きた災難を笑うのは、哀しむべきことだが。

米の配給制度が初めて貧農層にも米食を行き渡らせたことは知らなかった。
また、戦前の組合運動が産業報国会という労使協同の談合組織として
事業所ごとに組織され、それが戦後に労働組合となったとも、知らなかった。
戦後の重工業化や食管法など、戦時中の名残の制度は知っていたが、
管理通貨制度や指定金融機関制度、下請け制度、
年功序列や終身雇傭もそうとなれば、
経済という有機体が戦争を経ようともいかに連続した営みであるか、
改めて驚かされる。

話はそれるが、読んでいて感じたことは、
官僚というのは優秀な集団だとしても所詮は権力の両腕でしかなくて、
善行も愚行もとにかく精密に遂行する連中でしかない、ということ。
もちろん、官僚機構は行政を執り行ういわば歯車であって、
議論や内部監査といった思考をする場ではないので、当然といえば当然だが。

ちくま学芸文庫。
もとは、石油二法へのアクチュアルな問いとして、
1974年に日経新書として刊行されたもの。
巻末には資料として、
国家総動員法の条文や、経済新体制確立要綱などが付録されている。
およそ半世紀前、高度経済成長末期の日本人は働くサルのイメージだが、
新書がこれほどの知識の厚みのある書物を以て世に問うとは。

19.7.19

鳥居『キリンの子』、ウエルベック『ランサローテ島』、クッツェー『モラルの話』、五十嵐泰正・開沼博『常磐線中心主義』、町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」

鳥居『キリンの子』

壮絶な生い立ちの歌人という怖さから、
手許に置きつつもページを開けなかった。
詠み手は自己から乖離して、自分の身体を遠方から見つめている、
そのような歌がほとんどだった。
それでいて、その視覚はまっすぐなあまり私情がない。
心理小説の掌篇のような歌だ、と思った。

入水後に助けてくれた人たちは「寒い」と話す 夜の浜辺で
(p.8)
死のうと入った海は暖かかったのだろうか。
陸はもっと凍えるようなところだったのだろうか。
そう問いたくて垣間見ようとする詠み手の心理が、
まったく閉ざされている。

だが、読み進めてゆくと、徐々に詠み手に感情が灯ってゆく。
私は、その熱のような実感が、このひたむきな歌人と歌集の訴えであり、救いだと感じた。


ミシェル・ウエルベック『ランサローテ島』

旅行先での淫交は『プラットフォーム』に似た筋立てだし、
救済が宗教へつながる結末は『服従』に近い。
いずれにしても、読むとある意味でスカッとするが心がささくれる、
ウエルベック節が全開の小説だった。


J・M・クッツェー『モラルの話』

クッツェーはかくも対話を描く作家だったか、意外だった。
それにしても、モラルなのか、
あるいは「節度」というべき何かなのか。
人が人とわかり合うとは、何なのか。


五十嵐泰正・開沼博責任編集『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』

常磐線を通して他の線路よりも語りえることがあるのだとすれば、それは「語られてこなかったこと」だ。[...]一言で言うならば「未来のなさ」ではないか。[...]常磐線に何か未来はあるのか。常磐線の路線自体もそうであるし、その沿線の地域についてもそうだ。
(p.289〜290)
開沼博による終章のまとめが、この一見雑駁な論集に、
不思議と通底する何かを浮かび上がらせている。
そう、南千住、柏、水戸、日立、泉、いわき、内郷、富岡の
各駅についての論文やコラムは、
各地域の精いっぱいでちっぽけな特性を描いている。
それらは、振り回されてきた主体性のなさであり、
そうせざるをえなかった立ち位置、とでもいうべきか。
その三者三様のありさまは、結局のところ先行きのなさへ逢着する。
そして、この空気は、まさに現在の日本、いや先進国じゅうで感じられるものだ。

社会が一体性を喪い、ゆっくりと解体して、ばらばらに漂ってゆく感じ。
まさに、町ごとに異なるその解体の経過が、この論集は語っていたように思う。


町田康「記憶の盆踊り」「少年の改良」

Amazon kindle版。
どちらも語り手が揺らぐ筋立てで、初期短篇のようだと思った。

5.5.19

2018年夏/安部公房『人間そっくり』、谷崎潤一郎『細雪』『蘆刈』『吉野葛』『金色の死』、バルザック『暗黒事件』、タブッキ『レクイエム』、ウエルベック『服従』、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん!』

昨年の夏は自分にとって、むしろ冷涼な空調とともに過ぎた。
転居という物質的な変化に始まったものの、
過ぎてみれば、心の引き裂かれる時間だった。

一方、わが小さな命は目を瞠る早さで育っている。
彼は私(たち)と周囲をどんどん飲み込んでいる。
成人して何を吐き出してくれるのか、恐れつつも楽しみだ。
が、結局は私(たち)と周囲が培ったものと肝に銘じる必要がある。

人生とは所与の時間であり、どう満たすかでしかない。
その半分は喪われた。残りを何で満たせるだろう?