昨年の夏は自分にとって、むしろ冷涼な空調とともに過ぎた。
転居という物質的な変化に始まったものの、
過ぎてみれば、心の引き裂かれる時間だった。
一方、わが小さな命は目を瞠る早さで育っている。
彼は私(たち)と周囲をどんどん飲み込んでいる。
成人して何を吐き出してくれるのか、恐れつつも楽しみだ。
が、結局は私(たち)と周囲が培ったものと肝に銘じる必要がある。
成人して何を吐き出してくれるのか、恐れつつも楽しみだ。
が、結局は私(たち)と周囲が培ったものと肝に銘じる必要がある。
人生とは所与の時間であり、どう満たすかでしかない。
その半分は喪われた。残りを何で満たせるだろう?
安部公房『人間そっくり』
正と誤の二軸があって、そっくりそのまま入れ替わる。
その意味で連想するイヨネスコ『犀』は即物的だが、
『人間そっくり』はより言語的だ。
舞台で見て観たいと思った。
谷崎潤一郎『細雪』
テーマが大正モダニズムそのものなので、
てっきりそのような時代を描いたものかと思っていた。
実際は第二次大戦前夜というべき時期であり、
「時節柄」という表現も出る。
蒔岡家の身の回りで起きるさまざまな出来事を通して、
阪神間の良家の文化が前提というか普遍として描かれる。
が、それは間違いなく滅びるものであり、再生しない。
物語は栄養注射の常用から始まるし、
物語中に医者がいくらでも登場する。
次女幸子は流産し、
最後、三女の雪子が高齢の華族と結婚するも下痢が止まらず、
四女妙子は死産する。
が、滅びるとはいえ美はその瞬間において普遍だ。
毎年京都へ観に出かける桜がそうであり、
四姉妹の縹緻じたいがそうだ。
谷崎潤一郎『蘆刈』『吉野葛』『金色の死』
『蘆刈』は大山崎、『吉野葛』は吉野が舞台で、
ともに行った情景が懐かしかった。
『金色の死』は観念的で、後半を除いて情景はなく、
谷崎にしては異色と感じた。
オノレ・ド・バルザック『暗黒事件』
王党派としてのバルザックを改めて感じた、というのはさておき。
お腹いっぱいになる小説とはこういうことだと思う。
まず、複雑なプロットを読む快楽とは、神の視点の幻視だ。
さらに、バルザックの小説はそうだが、登場人物それぞれが生きているし、
アクション映画的なシーンがあちこちにちりばめられている。
アントニオ・タブッキ『レクイエム』
ペソアに捧げられたリスボン彷徨の記。
主人公はリスボンを通してペソアに近づいてゆく。
出会う人々が語る言葉は、不思議と静謐なレクイエムとなっている。
街は静かだが、『ペドロ・パラモ』のように街が死ぬことはない。
料理やワインは実に旨そうに描かれ、
死者は此岸に蘇ったかのように、生者と語らう。
このような悼みは親しいし、悪くない時間だと思った。
ミッシェル・ウエルベック『服従』
現代民主主義と地続きのディストピアが描かれていて、
そのうち半分はすでにル=ペンという名で現実化している。
もう半分はイスラーム穏健党で、
この二政党の決選投票というテーマが、本作の目玉だ。
もっとも、ウエルベックらしく、現実への諦観が、
危険すぎるほど親身で優しく描かれている。
人間は社会的であるにもかかわらず、社会は不在だ。
その先が何なのか、という試算のような小説だった。
ちなみに、マクロンはこの多「分」化社会における夢見人だと思うが、
政策はおおむね新自由主義的であり、
極右はいずれ平手打ちのように政権を獲る気がする。
安倍政権がそうであるように、
右翼はとっくに終わった夢のまどろみを続けてくれるからだ。
本当のゆくすえは中世の再来である気がしてならない。
ローマ教皇に代えて巨大資本が前提とされる中世に。
矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん!』
ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して南下し、
日本は東経139度線で分断されて独立する。
現実との落差がいちいち笑わせる。
新潟の農村ゲリラの党首である田中角栄はよくわからなかったが、
その下で働く平岡公威はいかにもだった。
吉本シズ子率いる西日本がアメリカを凌ぐ資本主義国家として描かれ、
洋服の青山がバーバリーを買収したりしているが、
滑稽さは、自信のないままJapan as No.1となった不安ゆえか、
同時代の作品にひどく共通している。
また、物語は昭和天皇崩御に始まり、富士山で終わる。
やはり価値観は戦後の昭和といった読後感だった。
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