谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』
循環小数のような小説。谷崎潤一郎の状況説明的な文体が、
猫を焦点としてぐるぐる回ってゆく感じ。
フランチェスカ・タタレッラ『Natural Architecture Now ナチュラル アーキテクチャーの現在』
挙げられている構造物は、建築というよりインスタレーションというべきだ。多くは屋根を持たないし、
建築としての最低条件たる空間を区切る役割さえ十分に果たさない。
しかし、それゆえに、建築に対する異議申し立てのように語る。
それが面白かった。
特に、アルネ・ケーンズによる木材組みのインスタレーションは、
最後に火を放たれて燃える、という作品だった。
建築が静ならば、ナチュラル・アーキテクチャーは動だし、
剛に対して柔、永に対して瞬だ。
そこには、出会いのようなはかなくも強い印象がある。
矢部史郎『夢みる名古屋 ユートピア空間の形成史』
現代書館・刊。あとがきで筆者が述べているように、都市論だ。
日本の、あるいは世界中の都市が、
どのように人間に対して構成されてきたかを分析する。
都市の成分を三つの地層に分解すること、すなわち、近代都市計画・モータリゼーション・ジェントリフィケーションを、それぞれに独立した系として考察することは、[...]。そして名古屋の都市構造が、この三つを非常に見えやすい状態で提示していることに驚いた。(p.219)そのなかでも、日本的な近代化を端的に示していると思われたのが、次の一節。
ここでは、近代化によって近世的なものが崩されていくのではなく、反対に、近世的なものを束ねることによって近代化がめざされていく。近世的な社会と意識が払拭されることはない。近世は保存されながら、近代性へ統合されていくのである。内務省と産業資本が近世的意識を統合し、都市開発と兵器生産に没頭する。行政と産業資本、小地主、小ブルジョアジー、産業労働者、そして軍部が、有機的に結合していく。ファシズムの時代の標本ともいうべき構図が、名古屋にはあらわれていた。(p.41)マルクスが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で引用した、
ヘーゲルの「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」を思わせるが、
日本ではやや違っていて、繰り返すのは歴史ではなく近世だ。
古臭い存在が鵺のように生き延びて、
時代時代に合わせた夢を見るようにして歴史を生成する。
天皇制がまさしくそうだし、財閥の存在もそうだ。
小牧インターチェンジを議論の端緒として、
工業化の内陸化と不可視化を論じる議論は、面白かった。
1978年12月に発生した口裂け女の怪談が、
異常な緊迫感を持って全国に波及する、その裏づけとしての、
人ではなく車を尺度として構築された街の行き場のなさは、
思わず頷かされた。