13.1.20

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、タタレッラ『Natural Architecture Now』、矢部史郎『夢みる名古屋』

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

循環小数のような小説。
谷崎潤一郎の状況説明的な文体が、
猫を焦点としてぐるぐる回ってゆく感じ。

フランチェスカ・タタレッラ『Natural Architecture Now ナチュラル アーキテクチャーの現在』

挙げられている構造物は、建築というよりインスタレーションというべきだ。
多くは屋根を持たないし、
建築としての最低条件たる空間を区切る役割さえ十分に果たさない。
しかし、それゆえに、建築に対する異議申し立てのように語る。
それが面白かった。

特に、アルネ・ケーンズによる木材組みのインスタレーションは、
最後に火を放たれて燃える、という作品だった。
建築が静ならば、ナチュラル・アーキテクチャーは動だし、
剛に対して柔、永に対して瞬だ。
そこには、出会いのようなはかなくも強い印象がある。

矢部史郎『夢みる名古屋 ユートピア空間の形成史』

現代書館・刊。
あとがきで筆者が述べているように、都市論だ。
日本の、あるいは世界中の都市が、
どのように人間に対して構成されてきたかを分析する。
都市の成分を三つの地層に分解すること、すなわち、近代都市計画・モータリゼーション・ジェントリフィケーションを、それぞれに独立した系として考察することは、[...]。そして名古屋の都市構造が、この三つを非常に見えやすい状態で提示していることに驚いた。(p.219)
そのなかでも、日本的な近代化を端的に示していると思われたのが、次の一節。
ここでは、近代化によって近世的なものが崩されていくのではなく、反対に、近世的なものを束ねることによって近代化がめざされていく。近世的な社会と意識が払拭されることはない。近世は保存されながら、近代性へ統合されていくのである。内務省と産業資本が近世的意識を統合し、都市開発と兵器生産に没頭する。行政と産業資本、小地主、小ブルジョアジー、産業労働者、そして軍部が、有機的に結合していく。ファシズムの時代の標本ともいうべき構図が、名古屋にはあらわれていた。(p.41)
マルクスが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で引用した、
ヘーゲルの「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」を思わせるが、
日本ではやや違っていて、繰り返すのは歴史ではなく近世だ。
古臭い存在が鵺のように生き延びて、
時代時代に合わせた夢を見るようにして歴史を生成する。
天皇制がまさしくそうだし、財閥の存在もそうだ。

小牧インターチェンジを議論の端緒として、
工業化の内陸化と不可視化を論じる議論は、面白かった。
1978年12月に発生した口裂け女の怪談が、
異常な緊迫感を持って全国に波及する、その裏づけとしての、
人ではなく車を尺度として構築された街の行き場のなさは、
思わず頷かされた。

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』、『同 戦中篇』、柏木惠子『子どもが育つ条件』

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』『同 戦中篇』

戦時中の暮らしというものがどうだったのか、
その生の声を知りたくて、読む。

物資統制中は大変な思いをしながらも、
それでもかなり良い暮らしをしていたとは驚き。
昭和19年や20年でも、常食でないにしても白米や卵を食べ、
麻雀やポーカーに興じているとは。
知名度にものを言わせて慰問で物資を稼ぐなど、
庶民からすれば苛立ちの種だろう。
もっとも、その時代は臣民一人ひとりに逞しく生きるよう強いた、
その喜劇役者としての一例にすぎないのかもしれない。

年を経るにつれて、敗戦色が濃くなってゆくのが興味深い。
喜劇を弾圧する内務省当局の行き当たりばったりな対応はさながら悲喜劇。
報道が連合国側の動静を知って、
1945年初めにすでにおぼろげに敗戦を予期していたらしいとは驚いた。
もっと言論統制と防諜が効いていて、
そのようなことは話せなかったものと捉えていたが。

いずれにしても、戦時とはいえ、同じ人間が日常を引きずって生きていた、
その普遍性に戦争をかぶせて初めてわかる、その虚しさ。

『戦後篇』『晩年篇』を読み残している。
ちびちび進めながら、今度は戦後の混乱と復興を眺められるぼが楽しみ。

柏木惠子『子どもが育つ条件 ──家族心理学から考える』

岩波新書版。
内容は、「子どもが育つ」というより「大人が育てられる条件」であり、
すなわち、男性の長時間労働と家庭不在への指弾が多い。
2008年初版からここ10年余りで、
男性の育児休業取得にまつわる状況は改善しただろうが、
抜本的には変わっていない現状が見て取れる。

「「先回り育児」がもたらすもの」という章は子育てへの即効性ある智慧であり、
読んでいて納得させられた。
年齢よりは早く習いごとに通わせるより、
子どもに応答的であることが今後必要である、ということ。

2008年初版ということで、10年前の刊行だが、
小学校での英語教育という愚策を許す社会にあって、
その警鐘はより人口に膾炙してしかるべきだと思う。