28.10.12

夏目漱石『門』、『私の個人主義』

 夏目漱石『門』


自分が裏切った友人に久しぶりに会わせる顔がなく、とうとう仏門に救いを求める。
彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。
 要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」と、
漱石はどうして評したのか。
それでいて、役所の人員削減に引っかからずに給与も上がり、
小さな幸せとともに、小説は終わる。
その最終盤、季節を感じさせる暖かい家庭の温もりに、
小津の映画のような無常観が、逆に感じられる気がする。

このストーリー展開は、「ヨブ記」を思わせる。
もっとも主人公の宗助には世を偲ぶべき過去があるが、
誰しもが大なり小なり呵責されることを持っている。
その過去の苦しみが「門に入れない不幸」とされることが、
原罪ほどに強い責め苦として追及されていることが、
私にそう感じさせるのかもしれない。

休暇をはたいて向かった仏門さえ、
生活があって真剣にくぐり抜けられない。
八方塞がりのまま、降りてくる幸不幸を甘受する弱さが、
幸せとも不幸ともつかない宗助とお米の夫婦の宿命として、淋しい。


 夏目漱石『私の個人主義』

漱石の明晰さは、出発点を大切に論が展開されていることだろう。
明治日本が外発的に始まった近代化という説明にしろ(「現代日本の開化」)、
労働疎外の状態を予見していることにしろ(「中身と形式」)、
その理想型がルネサンス的な一身で完全な人間にあることは、
漱石が時代に先んじた個人主義的な思想家だった証左に思える。

1.10.12

夏目漱石『硝子戸の中』、『それから』


 夏目漱石『硝子戸の中』

『吾輩は猫である』をエッセイにしたような随筆。
随筆の醍醐味として、「私」というものが希薄であるからこそ、
著者の生活や死生観が生き生きと浮き上がる点にある。
それが、書斎の硝子戸から世と来歴を覗き見ながら綴る、という表題にも繋がる。
自分は文学研究者ではないのでよくわからないが、
自然のままという事態のままならなさというか、
生きる上でのそこはかとない不安というか、そんな感情が滲んでいるようで、
写真で有名なあの頬杖を突いた漱石の俯いた目線を、
読みながらしばしば思い出させた。


 夏目漱石『それから』

裕福な実家に支えられてぶらぶらする代助が、
自分の結婚相手への強い意志を貫くため、親友とも実家とも縁を切り、
社会的に眉を顰められるべき掠奪婚を決める。

自らへの意志を尊ぶことが、客観的に見れば破滅的な方向へ走ることになる、
これがどのようにありうるのか、精神の逍遥が丹念に描写される。
漱石はこの自由意志に対して、積極的なのか消極的なのか。
しかしこの疑問は、小説(という形式)がこの問題へ回答の方向性を
棚上げにしたまま問いかけているということから、
あまり意味のないものなのかもしれない。
いや、大いに考えられるべき問題を、生のまま呈示している。

代助の友人に、もとはあった学問意欲が、
生活にまぎれて消えていった、という者が挿話的に語られる。
続く『門』の主人公がその位置になるのだが、
これは、文学部出身者の一として、そして社会人として生活に忙殺されつつある中で、
由々しき一事例として、常に念頭に置き、恐れ戦いておきたい。

青空文庫を電子書籍アプリで読んだ。
片手で繰っていくのも悪くないが、
ふと思ったページの縁を備忘に折ることができないのがもどかしかった。