夏目漱石『門』
自分が裏切った友人に久しぶりに会わせる顔がなく、とうとう仏門に救いを求める。
「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」と、
漱石はどうして評したのか。
それでいて、役所の人員削減に引っかからずに給与も上がり、
小さな幸せとともに、小説は終わる。
その最終盤、季節を感じさせる暖かい家庭の温もりに、
小津の映画のような無常観が、逆に感じられる気がする。
このストーリー展開は、「ヨブ記」を思わせる。
もっとも主人公の宗助には世を偲ぶべき過去があるが、
誰しもが大なり小なり呵責されることを持っている。
その過去の苦しみが「門に入れない不幸」とされることが、
原罪ほどに強い責め苦として追及されていることが、
私にそう感じさせるのかもしれない。
休暇をはたいて向かった仏門さえ、
生活があって真剣にくぐり抜けられない。
八方塞がりのまま、降りてくる幸不幸を甘受する弱さが、
幸せとも不幸ともつかない宗助とお米の夫婦の宿命として、淋しい。
夏目漱石『私の個人主義』
漱石の明晰さは、出発点を大切に論が展開されていることだろう。
明治日本が外発的に始まった近代化という説明にしろ(「現代日本の開化」)、
労働疎外の状態を予見していることにしろ(「中身と形式」)、
その理想型がルネサンス的な一身で完全な人間にあることは、
漱石が時代に先んじた個人主義的な思想家だった証左に思える。
0 件のコメント:
コメントを投稿