14.3.13

『魯山人の食卓』『終の信託』『アズールとアスマール』『サラの鍵』『郵便配達の学校』『鳥』『麦秋』『滝の白糸』『ポリグラフ 嘘発見器』『彼岸過迄』『行人』『レ・コスミコミケ』


忙しさは、言い訳にすぎない。時間は作るべきものだ。
しかし、限度もある。その葛藤にいたが、今は和らいだ。
ここにメモしておく時間さえなかったが、うちやっておけば必ず忘れる。
今でも順序などははなはだ怪しい。


○山田和『魯山人の食卓』

平凡社新書。
北大路魯山人の食への追及とその思想が、献立とともにいくつも紹介されている。
献立は見どころだし、参考にもなる。
書に始まり、美食、陶芸と生涯に貫いた思想は、言ってしまえば単純明快だ。
旨さ、がそれだ。ただ、魯山人の場合、そこに食らいついても話さない執念がある。
それは、『神的批評』で垣間見た精神のとおりだ。
加えて、本書で見出だした魯山人の姿が、もう一つある。勘と試行錯誤だ。
醤油の使い方の手ほどき一つみても、魯山人の智識の深さに驚かされる。
相反していながら両輪をなすのが、既存に囚われない勘のよさだ。
刺身の盛りつけにしても、ジャンルを超えた焼き物の独自性にしても、
そこには魯山人の他にありえない唯一の軸が、太く通っている。
魯山人の亡きあと、魯山人の流派はありえないということにもなる。
それは種田山頭火であり、ジョブズであり、柳田國男と同じ系譜にある。
その人の改良型というものが存在しない独自性と一回性がある。


○周防正行『終の信託』

周防正行は『それでもボクはやってない』で、裁判のストーリー性に目覚めたか。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の終盤も、西川美和『ゆれる』もそうだった。
展開を小出しにできるし、その鬩ぎあいがなにより見応えになる。
自分が面白く見たのは、検事による話の持っていき方だ。
事実がどうかはわからないが、ありそうな歪め方だと思った。


○ミッシェル・オスロ『アズールとアスマール』

原題は « Azur et Asmar »。
azurはフランス語で青、أسمرはアラビア語で褐色。
主人公二人の眼の色を意味する。

ファンタジー調ながら偏見とへつらい、価値観の転倒が容赦なく描かれる。
それは見ていてわかりやすいだけに、大人のほうが身につまされるほどだ。


○ジル・パケ=ブランネール『サラの鍵』

原題は « Elle s'appelait Sarah »で、英題が "Sarah's Key"。
第二次大戦時、親ナチス政権下にあったフランスでのユダヤ人迫害の話。
現在が歴史を遡行する進行は、例えば中島京子『小さなおうち』に似ている。

進行が当時と現在を入り混ぜていて、その風景の落差が否応なく目につく。
しかも現在はパリ、ニューヨーク、フィレンツェと舞台が飛び回る
(米英に加えてイタリアが入るのは、連合国と枢軸国の対照ではないか)。
国境を越える容易さが逆に、そうはいかなかった過去を振り返らせる視座になっている。


○ジャック・タチ『郵便配達の学校』

無声映画の喜劇短篇。
コミカルな動きもさることながら、
スピード感のある動作が次々に繋がってゆく爽快感がある。


○アルフレッド・ヒッチコック『鳥』

この映画がいいのは、
鳥が人間を襲う理由が最後までわからないこと、
そして救いがわずかも提示されないこと。
ハリウッドで活躍しながらハリウッドらしくないということだ。
こういった、反現実が現実を脅かす作品は、
細部が細やかであればあるだけいいのか、と思った。


○『麦秋』『滝の白糸』

南座で鑑賞。


○ロベール・ルパージュ『ポリグラフ 嘘発見器』

演出・吹越満、翻訳・松岡和子(!?)。一月下旬に梅田藝術劇場で鑑賞。
原題は « Le Polygraphe » で、ケベックを舞台にしている。
舞台ならではの技巧がふんだんに盛り込まれていて、面白かった。
影と光を人の動きにフィットさせたり、
カメラとスクリーンを使用して観客の視点に二つ目を用意したり
(庵野秀明『ラブ&ポップ』のカメラワークを思い出した)、
あまり舞台を見ない自分としては新鮮だった。


○夏目漱石『彼岸過迄』

連作が一作にまとまっているという形態が、まず序文で明かされる。
敬太郎を狂言回しに、須永と千代子の宿命的なすれ違いが描かれる。
ハムレットのようにうじうじと何もできない須永の悶々とした苦悩が、
場面や舞台を投影するたびに浮かび上がって過ぎてゆく。
そう、物語が展開するたびに心が主題を映じる、
この感覚が漱石の中後期には濃密だと思う。
エピソードが豊富でありながらあまり残らず、
それらに投影され尽くした気概や気質のようなものが、深く読後感に残る。


○夏目漱石『行人』

この小説の中で、漱石の主題が中期から後期へと転じているように思った。
終盤、兄とHとの旅行の物語が、一気に主題を存在論的な位相に引き上げている。
むしろ、それまでの語りが、この主題の周囲に散りばめられた伏線の集合体だったようにさえ思った。
だが、新聞小説として順行して書かれた経緯は、そうではないらしい。
主題の転換を経て、終盤があったものだという。

一方で、中期の問題がより深く掘り下げられているように思った。
それは、人間(じんかん)のしがらみ、意志の割り切り方、のような問題だ。


○イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』

『見えない都市』のようなアンソロジーでありながら、
さらにスケールは大きく、宇宙・地球の歴史に材を取る。
宇宙の原始から存在する(なぜか、と訊いてはならない)Qfwfqが、
星雲のできるときのエピソードや、
魚類から両生類が分かれるさなかの青春期、
恐竜の絶滅した後の最後の恐竜の身分を隠して哺乳類と暮らす葛藤など、
懐かしげに大いに語る。
銀河の一点にしるしをつける話や、
星々の間で何億光年という時間をまたいでプラカードを見せあう交信の話は、
あり得ない設定が馬脚を見せる前に足早に語り去ってしまう言葉の魔力を、
まざまざと見せつけられた。
それは、『見えない都市』の静止観ではなく、『不在の騎士』の堂々たる語りだ。

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