著者はニュータウンについて、決定的な何かが欠いた空間として捉えようとする。
例えば、
松山巖は述べている。「東京をはじめ都市圏に人口が集中し、農地や工場跡地を蚕食して大規模団地が出現する。生産や加工の現場が見えぬ空間のなかで、事実は噂にすり替わり、モノ不足の危機感のみが拡大する」。人工都市は、生産や加工の現場から切断されて要るというだけでなく、そこに住む人たちに根づきの根拠を実感させる何ものか(伝承、習俗、風土性)からも切断された空間である。自然都市であれ、農村であれ、時間をかけてつくりだされた居住地には自然成長的に形成されてきたはずのものが、人工都市には不在である。(p.34)
あるいは、
私たちをとりまく世界にそなわる外在性、非人間性の度合いを弱め、環境世界を人間の意のままにすべく馴致したことの帰結として、人工都市を考えることが可能になる。環境世界の人間化である。そこでは、事物にそなわる奇怪で予期しえない影響が、あらかじめとりのぞかれている。ただし、予期しえないものの除去、馴致が、本当に可能かどうかはわからない。それでも、少なくともここに住んでいる人たちは、馴致が可能であると信じているし、私たちをとりまく世界がそもそも奇怪で、手なづけられないものであるということに、無自覚になっている。(p.36)
これらの指摘が捉えようとする不思議な焦燥感、乾きは、
村上龍『海の向こうで戦争がはじまる』の描く不思議な欲望と似ている気がしたし、
酒鬼薔薇聖斗事件のような猟奇性の底に同時代の子どもたち(私を含む)が感じた、
どことなく理解できる気分と、通底しているように思われた。
その後、議論は、都市環境論、あるいは身体論の変奏曲をたゆたう。
都市と自然、あるいは生活圏と他者、あるいは交錯と整然、記号ともの。
黒川紀章の設計した湘南ライフタウン(辻堂と湘南台の中間に位置)に関して、
自然を招き入れること。それはたんなる矯正を意味しない。たとえ都市から区別され、異質なものとして保全されていても、封じ込めと剥奪の対象となっているのであれば、自然は不活性状態にある。
自然を都市へと招き入れるということは、無垢なものとして聖別化されつつ剥奪されている状態にある自然の不活性状態からの解放を意味することになるだろう。(p.45)
ただ、住居・商業空間を城壁で自然から囲った姿が、都市のおこりだったわけで、
都市と自然の共生というコンセプトは、メルロ=ポンティ的というか、
むしろニュータウンのみならず現代都市への理想論的アンチテーゼにすぎる気がする。
私的ないし排他的な空間の集合体であるニュータウンは、イメージと言葉と音楽が漂い交錯していく世界の錯綜性のなかに異物として投入されたと考えることができるだろう。つまり、世界の錯綜的とは質を異にする特性が、ニュータウンにある。効率的で機能的で自己完結した空間を構築すること。これは、世界の錯綜性を整序し、消去していくことである。(p.55)
廃屋において、「ものがある」と感じてしまうのも、廃屋が機能的存在であることをやめているからである。(p.147)
[...]空間に質感があることを捉え、その質感にこそ、空間の生死があることを感知した点でも、多木の議論は優れていた。
それでも多木の議論は、人工的な都市空間を一律に生きられた空間ではないと捉えた点で、制約を受けてしまっている。
[...]
多木の議論に対しては、次のように応答したい。たしかにニュータウンは、外在性の論理の帰結である。技術によってつくりだされた世界である。だが、そこに人は住んでいる。のみならず、ニュータウンに人が住むようになって、およそ半世紀が経とうとしている。外在性の論理のもとでつくりだされた生活空間を、生きることの根拠として受けいれ、そのもとで、生活を営んできた人たちがいる。私たちはもう、ニュータウンを思考するとき、住むことの意味の喪失や没場所性といった文化論的な観念を参照するのをやめるべきだろう。[...]考えることの手がかりが、ニュータウンにおける廃墟化にあると、私は考える。ただし、廃墟化を考えるためには、まず何が廃墟化しているのか、廃墟化はどのようなところにおいて起きているのかをしっかりと捉える必要がある。つまり、ニュータウンとはどのようなものかを、人間の内面性とは独立の外在的な世界と見立てて把握し提示することである。(p.156)
ここまで補助線を引いてくれれば、ニュータウン育ちの私にとって、答えは一つ。
コミュニティの不在だ。
ここまでのニュータウンをめぐる議論は、オタク論としてさえ読める。
その意味で、ニュータウンとはオタクたちの理想郷なのかもしれない。
著者は最後まで、コミュニティ構築をニュータウンへの突破口と考える。
だから、近隣との壁を和らげ脱臼させようとする近年の住宅建築に注目するし、
あくまで相手を認めることに主眼を置く。
だが、ニュータウンがそれ以前の人工都市と決定的に異なるのは、
地域社会というものが委員会的に設計・運営されるにとどまり、
生活そのものに根を下ろさなかったということだ、と私は考える。
ニュータウンにおける地域社会とはPTA、自治会、生協でしかなかった。
そこに世代交代、よそ者、商業が入り込まなかったため、
都市という大枠へ収斂する入れ子状の社会に組み入れられなかった。
だから、ニュータウンは本質としてオタク的なのだ。
筆者自身が結語で認めているように、
本書はニュータウンの静止した雰囲気を捉えることを目的に、書かれている。
だが、例えば往年の炭鉱都市の荒廃を、
戦後史やエネルギー政策転換なくして、街中を歩き回るだけで語れるだろうか。
本書はニュータウンに関して内省的だが、クリティカルではない。
丁寧で優しく、示唆的ではあったが。
著者の文体として、比較的列挙が多い。
列挙は、実際に触れてみると全く異なるものを、
同一ジャンルという机上の論理で一本化することだから、
そのやり方は、ニュータウン的な思考な気がする。
最後に。
本著は、これまでに私が読んだニュータウン論で、もっとも優れていた。