20.11.16

ハリー・マシューズ『シガレット』、白洲正子『近江山河抄』

 ハリー・マシューズ『シガレット』

作者はOulipoのメンバーだとのことだが、実験性はさほど感じなかった。
因果がつながり伏線がどんどん回収されていく快感はたまらなかった。
「筆者が自ら考案したアルゴリズムで作った粗筋」とのことだが、
一体どんなアルゴリズムなのだろう?


 白洲正子『近江山河抄』

講談社文芸文庫版。

近江に住みはじめたからには、近江について知りたかった。
そんななか、手近にあったため手に取った。
(個人的に、滋賀という県名はそぐわない。
 滋賀とは現大津市の西半分を占める滋賀郡に由来するが、
 その地域が近江の支配的・代表的な立場にあるわけではないからだ。
 もっとも、宮城県(宮城郡に由来)、神奈川県(神奈川宿に由来)といい、
 廃藩置県という明治政府の反幕府的な立場による命名は、
 多かれ少なかれ同じ憂き目を負っているともいえるが)

「近江は日本の楽屋裏だ」という弁は、
奈良時代以前のヤマト朝廷の古代史が眠っている歴史の豊かさから、
思わず頷かされる。
京都と違って田舎へ帰した奈良よりも昔の歴史の記憶が、
消えかけながらわずかに残っている、
そんな気配みたいなものを掘り起こしてくれる。
エッセイながら歴史書なみの情報量だった。

今後、近江のあちこちを旅しつつ、参照したくなる本だった。

篠原雅武『生きられたニュータウン』

著者はニュータウンについて、決定的な何かが欠いた空間として捉えようとする。
例えば、
松山巖は述べている。「東京をはじめ都市圏に人口が集中し、農地や工場跡地を蚕食して大規模団地が出現する。生産や加工の現場が見えぬ空間のなかで、事実は噂にすり替わり、モノ不足の危機感のみが拡大する」。人工都市は、生産や加工の現場から切断されて要るというだけでなく、そこに住む人たちに根づきの根拠を実感させる何ものか(伝承、習俗、風土性)からも切断された空間である。自然都市であれ、農村であれ、時間をかけてつくりだされた居住地には自然成長的に形成されてきたはずのものが、人工都市には不在である。(p.34)
あるいは、
私たちをとりまく世界にそなわる外在性、非人間性の度合いを弱め、環境世界を人間の意のままにすべく馴致したことの帰結として、人工都市を考えることが可能になる。環境世界の人間化である。そこでは、事物にそなわる奇怪で予期しえない影響が、あらかじめとりのぞかれている。ただし、予期しえないものの除去、馴致が、本当に可能かどうかはわからない。それでも、少なくともここに住んでいる人たちは、馴致が可能であると信じているし、私たちをとりまく世界がそもそも奇怪で、手なづけられないものであるということに、無自覚になっている。(p.36)
これらの指摘が捉えようとする不思議な焦燥感、乾きは、
村上龍『海の向こうで戦争がはじまる』の描く不思議な欲望と似ている気がしたし、
酒鬼薔薇聖斗事件のような猟奇性の底に同時代の子どもたち(私を含む)が感じた、
どことなく理解できる気分と、通底しているように思われた。

その後、議論は、都市環境論、あるいは身体論の変奏曲をたゆたう。
都市と自然、あるいは生活圏と他者、あるいは交錯と整然、記号ともの。
黒川紀章の設計した湘南ライフタウン(辻堂と湘南台の中間に位置)に関して、
 自然を招き入れること。それはたんなる矯正を意味しない。たとえ都市から区別され、異質なものとして保全されていても、封じ込めと剥奪の対象となっているのであれば、自然は不活性状態にある。
 自然を都市へと招き入れるということは、無垢なものとして聖別化されつつ剥奪されている状態にある自然の不活性状態からの解放を意味することになるだろう。(p.45)
ただ、住居・商業空間を城壁で自然から囲った姿が、都市のおこりだったわけで、
都市と自然の共生というコンセプトは、メルロ=ポンティ的というか、
むしろニュータウンのみならず現代都市への理想論的アンチテーゼにすぎる気がする。
私的ないし排他的な空間の集合体であるニュータウンは、イメージと言葉と音楽が漂い交錯していく世界の錯綜性のなかに異物として投入されたと考えることができるだろう。つまり、世界の錯綜的とは質を異にする特性が、ニュータウンにある。効率的で機能的で自己完結した空間を構築すること。これは、世界の錯綜性を整序し、消去していくことである。(p.55)
 廃屋において、「ものがある」と感じてしまうのも、廃屋が機能的存在であることをやめているからである。(p.147)
[...]空間に質感があることを捉え、その質感にこそ、空間の生死があることを感知した点でも、多木の議論は優れていた。
 それでも多木の議論は、人工的な都市空間を一律に生きられた空間ではないと捉えた点で、制約を受けてしまっている。
 [...]
 多木の議論に対しては、次のように応答したい。たしかにニュータウンは、外在性の論理の帰結である。技術によってつくりだされた世界である。だが、そこに人は住んでいる。のみならず、ニュータウンに人が住むようになって、およそ半世紀が経とうとしている。外在性の論理のもとでつくりだされた生活空間を、生きることの根拠として受けいれ、そのもとで、生活を営んできた人たちがいる。私たちはもう、ニュータウンを思考するとき、住むことの意味の喪失や没場所性といった文化論的な観念を参照するのをやめるべきだろう。[...]考えることの手がかりが、ニュータウンにおける廃墟化にあると、私は考える。ただし、廃墟化を考えるためには、まず何が廃墟化しているのか、廃墟化はどのようなところにおいて起きているのかをしっかりと捉える必要がある。つまり、ニュータウンとはどのようなものかを、人間の内面性とは独立の外在的な世界と見立てて把握し提示することである。(p.156)
ここまで補助線を引いてくれれば、ニュータウン育ちの私にとって、答えは一つ。
コミュニティの不在だ。
ここまでのニュータウンをめぐる議論は、オタク論としてさえ読める。
その意味で、ニュータウンとはオタクたちの理想郷なのかもしれない。

著者は最後まで、コミュニティ構築をニュータウンへの突破口と考える。
だから、近隣との壁を和らげ脱臼させようとする近年の住宅建築に注目するし、
あくまで相手を認めることに主眼を置く。

だが、ニュータウンがそれ以前の人工都市と決定的に異なるのは、
地域社会というものが委員会的に設計・運営されるにとどまり、
生活そのものに根を下ろさなかったということだ、と私は考える。
ニュータウンにおける地域社会とはPTA、自治会、生協でしかなかった。
そこに世代交代、よそ者、商業が入り込まなかったため、
都市という大枠へ収斂する入れ子状の社会に組み入れられなかった。
だから、ニュータウンは本質としてオタク的なのだ。

筆者自身が結語で認めているように、
本書はニュータウンの静止した雰囲気を捉えることを目的に、書かれている。
だが、例えば往年の炭鉱都市の荒廃を、
戦後史やエネルギー政策転換なくして、街中を歩き回るだけで語れるだろうか。
本書はニュータウンに関して内省的だが、クリティカルではない。
丁寧で優しく、示唆的ではあったが。

著者の文体として、比較的列挙が多い。
列挙は、実際に触れてみると全く異なるものを、
同一ジャンルという机上の論理で一本化することだから、
そのやり方は、ニュータウン的な思考な気がする。

最後に。
本著は、これまでに私が読んだニュータウン論で、もっとも優れていた。

14.11.16

ATTAC『反グローバリゼーション民衆運動』、池内紀『東京ひとり散歩』

 ATTAC・編『反グローバリゼーション民衆運動 アタックの挑戦』

2001年発行。杉村昌昭訳。
ATTACによる声明や論文がまとめられている。
paradis fiscalを租税回避地ではなく税金天国とする誤訳は、この際目をつぶろう。

反グローバリゼーション運動といえば、
ラッダイト運動のような旧時代の断末魔のように聞こえるが、
ATTACはトービン税という金融取引税の課税を国際社会に求める運動によって知られる。
その運動は今世紀初めにフランスで始まり、全世界へと広まった。
訳者による序文によれば、ATTAC運動は世界中に拡がり始めた矢先、
9.11により運動は一変したという。
確かに、そのとおりだろう。
単一市場経済に対する経済学的な立場とはまったく違う反テロリズムという国際協調が、
世を席捲し、熱狂させ、経済搾取を隠蔽したのだから。
いま、ATTACはどうなっているのだろう?
が、今は日本にいる限り、ほぼ何も聞こえてこない。

本書を読むと、ヨーロッパの民主主義がいかに暮らしに根ざしているか、羨ましくなる。
トービン税という税収が想定される以上、国家は前提とされる。
しかも、多国籍企業やグローバル企業と対峙する国家である必要がある。
つまり、開発独裁型の国家をあまり想定していない。
もちろん、国家の経済成長追求の側面はあれど、
技術革新への補助という国家の「悪」の一面は官僚の領分であり、
ATTACは国民の代弁者たる議員を通じて、国策に関与すべき、という。
代表制民主主義が正しく機能していることに驚かされ、そして哀しくなる。
この感覚がフランスで当たり前だということは、フランス在住の経験からよくわかる。
日本ではありえないということも、よくわかる。この歯がゆさ。

経済活動、経済成長がどこからくるのか、という考え方が、まず日本と異なる気がする。
日本の場合、経済発展は基本的に善であり、その内容や因果は問われない。
一方、ATTACのいう経済とは(理想論的には?)「経世済民」「相互扶助」であり、
その視点を欠いた経済発展はむしろ社会的紐帯を破壊する、という。
その点、日本はしょせん開発独裁型国家なのだという印象を覚えずにはいられない。


 池内紀『東京ひとり散歩』

東京は、都市としての歴史が400年あまりしかない。
それどころか、銀座、丸の内、新宿、新橋など、
東京のいまの顔は、早くて明治からの開発だ。
だから、街々の趣がそのなりたちをよく残している、そんな気は確かにする。
歴史が地層をなしてどろりと溶けあっているような、
近畿の考古学的なわかりづらさは一切ない。
いわれや風俗を織り交ぜて街を歩くには、もってこいの都市なのかもしれない。

横浜に住んで、主に副都心線に親しんだ身としては、墨東をあまり歩いたことがない。
一度、ぶらぶらと訪れてみたい。