ATTAC・編『反グローバリゼーション民衆運動 アタックの挑戦』
2001年発行。杉村昌昭訳。
ATTACによる声明や論文がまとめられている。
paradis fiscalを租税回避地ではなく税金天国とする誤訳は、この際目をつぶろう。
反グローバリゼーション運動といえば、
ラッダイト運動のような旧時代の断末魔のように聞こえるが、
ATTACはトービン税という金融取引税の課税を国際社会に求める運動によって知られる。
その運動は今世紀初めにフランスで始まり、全世界へと広まった。
訳者による序文によれば、ATTAC運動は世界中に拡がり始めた矢先、
9.11により運動は一変したという。
確かに、そのとおりだろう。
単一市場経済に対する経済学的な立場とはまったく違う反テロリズムという国際協調が、
世を席捲し、熱狂させ、経済搾取を隠蔽したのだから。
いま、ATTACはどうなっているのだろう?
が、今は日本にいる限り、ほぼ何も聞こえてこない。
本書を読むと、ヨーロッパの民主主義がいかに暮らしに根ざしているか、羨ましくなる。
トービン税という税収が想定される以上、国家は前提とされる。
しかも、多国籍企業やグローバル企業と対峙する国家である必要がある。
つまり、開発独裁型の国家をあまり想定していない。
もちろん、国家の経済成長追求の側面はあれど、
技術革新への補助という国家の「悪」の一面は官僚の領分であり、
ATTACは国民の代弁者たる議員を通じて、国策に関与すべき、という。
代表制民主主義が正しく機能していることに驚かされ、そして哀しくなる。
この感覚がフランスで当たり前だということは、フランス在住の経験からよくわかる。
日本ではありえないということも、よくわかる。この歯がゆさ。
経済活動、経済成長がどこからくるのか、という考え方が、まず日本と異なる気がする。
日本の場合、経済発展は基本的に善であり、その内容や因果は問われない。
一方、ATTACのいう経済とは(理想論的には?)「経世済民」「相互扶助」であり、
その視点を欠いた経済発展はむしろ社会的紐帯を破壊する、という。
その点、日本はしょせん開発独裁型国家なのだという印象を覚えずにはいられない。
池内紀『東京ひとり散歩』
東京は、都市としての歴史が400年あまりしかない。
それどころか、銀座、丸の内、新宿、新橋など、
東京のいまの顔は、早くて明治からの開発だ。
だから、街々の趣がそのなりたちをよく残している、そんな気は確かにする。
歴史が地層をなしてどろりと溶けあっているような、
近畿の考古学的なわかりづらさは一切ない。
いわれや風俗を織り交ぜて街を歩くには、もってこいの都市なのかもしれない。
横浜に住んで、主に副都心線に親しんだ身としては、墨東をあまり歩いたことがない。
一度、ぶらぶらと訪れてみたい。
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