30.4.17

カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』、伊藤比呂美訳「日本霊異記」

イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』

脇功訳。松籟社版「イタリア叢書」の一。

二人称で書かれる小説は珍しい。
しかも、男性読者と女性読者という二人の二人称が現れる。
ふつう単一の読者が本を読むが、この小説は逆に読者を取り替える。
また、小説はリニアに進むどころか唐突に中断され、
読み手は小説において二人称で語られる「自分」として、
物語の行方を追いかける。

終盤、禁じられた物語を求めて図書館に行き着いてゆくくだりは、
『華氏451度』と似て感じられた。
物語るという人間の本能的ともいえる行為への讃歌だ。

それにしても、カルヴィーノの作品は広範だ。
リアリズム的な叙述から、情景美やメタ小説まで。
文体や問題意識の明確さの一貫した近代的な作家像を超えて、
中世からポストモダンまでのあらゆるアプローチで物語る、
その職人技がカルヴィーノだ。


伊藤比呂美訳「日本霊異記」

池澤夏樹個人編集『日本文学全集』(河出書房新社)第8巻に収録。抄訳。
そういえば、高校生の頃、
同じ伊藤比呂美の『日本ノ霊異ナ話』の広告を文芸誌に見た記憶がある。

仏教色の濃い説話集ではあるが、
語られる内容の核心は生き生きとして庶民的だ。
中世的なグロテスクさが見え隠れもする。
一方、語りの枠組みや、因果律的な構成は、仏教的である。
9世紀に書かれたとき、すでに仏教は社会の上層部に食い込んでいただろうが、
庶民の間ではどうだったのだろうか。
案外、前後関係も整わないままの古来のグロテスクな民話が、
たくさん生きていたのではないか。
そして、その頃から人間は変わっていない。

いかに仏教色がまぶされていても、血の通った熱の帯びた物語が人間味を伝えている。

3.4.17

三浦展・藤村龍至『現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生』、宮澤賢治「貝の火」、薄田泣菫「利休と遠州」、芥川龍之介「六の宮の姫君」

三浦展・藤村龍至『現在知 Vol.1 郊外 その危機と再生』

NHKブックス別巻。
多数の著者、対談者の言説があって、面白かった。
団地に生まれ育った論者の言説はそれぞれ、
望郷の遠いまなざしと、少しずつ異なる原風景がどことなく入り混じっていて、
画一的とされる団地の多様性、あるいは団地受容の多様性を物語っていた。

郊外は戦後復興、高度成長という現代史を支えてきたなかで、
当初は文字どおり寝るためだけのベッドタウンだったが、
徐々に都心が多核化し、郊外は遠方の都心ではなく近郊の副都心への労働力供給へ、
軸足を移しつつある、という指摘がなされていた。
確かに、乗換駅はもともと郊外であったとしてもハブ化するし、
ロードサイド店舗の集中により副都心化する場合もある。
加えて、職住近接が比較的容易になったということだろう。

小田光雄の「(団地は)地方から追われ、都市に向かい、都市に住むことを拒絶された生活者たちの約束の地」という表現が紹介されていた(85ページ)。
団地に特有の逃げ場のなさ、漂白感、画一性は、確かに夢の地だっただろう。
が、そこは企業戦士たちの寮でしかなかった。住人の交流は競争意識的だった。
いまシェルター化した団地は、取り壊しを待つ古い自治寮に似ている。

都市開発と自治は結局のところ独裁のほうがうまくいくのではないか。
その意味で、ユーカリが丘や東急電鉄の事例は示唆的だった。
ユーカリが丘は山万が一体的に開発しており、
都市交通の運営、住居供給コントロールによる人口調整、
保育や介護の施設運営など、住民サービスを一手に引き受けている。
そのため、多くの業者が入り組んで身動きの取れなくなった団地一般と異なる。
たまプラーザ再開発の事例は、住民の参加があり、
計画に対する排他的な権力はいないにしても、
横浜市と東急電鉄の政策誘導は意地悪く見れば結論ありきの雰囲気がある。

宮沢賢治「貝の火」

喜多川拓郎による朗読。
勧善懲悪的な箴言のようなお話し。
特に、貝の火が時間差で毀れるということが、
もっとも作者が言いたかったことに思われた。

薄田泣菫「利休と遠州」
芥川龍之介「六の宮の姫君」

ともに海渡みなみによる朗読。