田川建三『歴史的類比の思想』
田川建三の鋭さとは何かというと、命題を読み解く裾野の広さと洞察だと思う。一つの問題を考えるとき、周辺や類型をも大きく汲み取る。
一般化するも、それが原則ではなくイデオロギーであることを忘れない。
現代を生きるヒントとしての歴史のありようとして、
現代を生きるヒントとしての歴史のありようとして、
この捉え方を会得したいものだ。
「原始キリスト教とアフリカ」では、
古代ローマ帝国と現代アフリカにおけるキリスト教普及を対応させて論じている。
ごく内輪で通じる弱小な母語と、
経済や社会の圏内で生活するためのギリシャ語/英語と、という言語の多重性があり、
支配階級ではない周辺民族のアイデンティティ喪失状態がある。
双方の個別の背景を述べながら、言語と民族と階級という軸で対照する。
アフリカのキリスト教が説教というより絶対的真理であり、
党派的勢力として関心を向けられている、という指摘が興味深かった。
皮肉でなく実態として政教の不可分ではないか。
「ウィリヤム」では、次の指摘がはっとさせられた。
歴史の随所に登場する法則だ。
抑圧の悲劇は抑圧の行為そのものに終るのではない。抑圧する者は、抑圧しているくせに、抑圧の残忍さを身につけることなく、清く美しく生きられるのに、抑圧されている者の方が、かえって、抑圧者の持つべき残忍さの性格までも、おのれの性格として背負いこんでしまうところにある。そして、おのれがもはや抑圧される位置にいなくなっても、身にしみついた抑圧者の残忍さは、持続する性格となって残る。[...]外部からの抑圧の構造が、内側の構造に転化される。(p.88)
「ウェーバーと現代」では、
ウェーバー研究家がウェーバーのみを礼讃する状況を指弾する。
要するに、自分たちの生きている状況の現実から問題を切り出していく、という消耗な、しかしそれをはずしてはすべてが虚妄になる作業は逃げておいて、問題意識自体をウェーバーから借りてくるという姿勢を持続している限りは、ついに翻訳屋でしかありえないし、その翻訳紹介にしたところで、ウェーバー自身をも矮小化してしまうことになるのです。(p.185)
自らが身を置いた文学研究を考えて、刃を突きつけられた心持がした。
カイヨワの同様の「文学」学批判を思い出す。
勁草書房刊、改装版。
ガンジー『ガンジー自伝』
蝋山芳郎訳。中公文庫版。
古い版なので字が小さかったが、読みやすかった。
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(通称マハトマ・ガンディー)の、
信仰厚く心優しい少年時代に始まり、
アフリカでのインド人差別との闘い、
そしてインドでの各地での運動について、語られている。
宗教によって育まれた倫理が普遍性を帯びて、
イスラムやキリスト教のような他宗教の指導者とも通じあっている。
闘争の状況下ゆえなのかもしれないが、
普遍的な信念が宗教を越えていたからだと、信じたい
(大インド主義は実現されなかったが)。
市民運動が顔と心情を持っていた、そういう僥倖を遠目に眺める気持で読んだ。
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