幸せな学校生活が、喜怒哀楽を伴うエピソードの羅列として綴られてゆく。
小説舞台の仕組みに行を費やすなんてことはない。
暮らす学校やコテージの描写、そこに満ちた会話や考えが、
ときに明らかにときに暗に、照らし出してゆく形。
その徹底でありながら、一つのSF的な世界が描かれているのだ。
SFはその世界の精度や問題を投げかける、
だがそれが小説である限り、その状況をどう懸命に生きるかだ。
世界を描く方法の中で一番やわらかい、と感じた。
徹頭徹尾が経験だから、頭ではなく心で追体験する。
制度への"人道的"疑問ではなく、ていねいに記憶された細部から、
そして、それを奪われてゆく淡々としたストーリーから、考えさせられる。
表題ともなっているNever let me goのシーンは、泣きたくなる。
5.10.10
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
米川正夫訳で読んだ。
このすさまじくも暖かい長篇を読み了るまで、一ヶ月もかかった。
今日、残る1/6ほどを一思いに読み切った。
主題は幾つも挙げられよう。
ロシアの精神性や庶民性、教育論、父と子の関係、冤罪、
そしてドストエフスキーという作家の主題である魂の救済…。
ひとまずここでは、自分の気づいた点だけ感想代わりにメモしておく。
記述(著者の視点というべきか)が非常に記者的だということが気になった。
文体と片づける以上のものがあるように思えてならない。
ドミートリイの行動を逐一追って記述が展開されるだけでなく、
検事側と弁護士側、そして大衆がそれぞれその流れをなぞる、
その行為そのものが野家啓一ふうにいえば「物語の再構成」になるからだ。
そして、そうして取りこぼされた事実のために、あってはならない冤罪が生じる。
これが一点。
そして、最後に殺される「父親」フョードルという、ある種の諸悪の根源に、
ドストエフスキーはなぜ自分の名を冠したのだろうか、という疑問。
物語の末尾で子供たちの挿話では、
半気狂いの両親と友人たちに見送られながらイリューシャが弔われる。
これは、弁護士の弁論で主張される教育論とも共鳴するし、
カラマーゾフ親子の悲劇的結末の裏返しにもなっている。
親から子へ、さらにその子へ、と連鎖する悲劇の頂点にいるからということでなのか。
もちろん、ありきたりな名前だからそんな疑問は愚かしい、といえようけれど。
このすさまじくも暖かい長篇を読み了るまで、一ヶ月もかかった。
今日、残る1/6ほどを一思いに読み切った。
主題は幾つも挙げられよう。
ロシアの精神性や庶民性、教育論、父と子の関係、冤罪、
そしてドストエフスキーという作家の主題である魂の救済…。
ひとまずここでは、自分の気づいた点だけ感想代わりにメモしておく。
記述(著者の視点というべきか)が非常に記者的だということが気になった。
文体と片づける以上のものがあるように思えてならない。
ドミートリイの行動を逐一追って記述が展開されるだけでなく、
検事側と弁護士側、そして大衆がそれぞれその流れをなぞる、
その行為そのものが野家啓一ふうにいえば「物語の再構成」になるからだ。
そして、そうして取りこぼされた事実のために、あってはならない冤罪が生じる。
これが一点。
そして、最後に殺される「父親」フョードルという、ある種の諸悪の根源に、
ドストエフスキーはなぜ自分の名を冠したのだろうか、という疑問。
物語の末尾で子供たちの挿話では、
半気狂いの両親と友人たちに見送られながらイリューシャが弔われる。
これは、弁護士の弁論で主張される教育論とも共鳴するし、
カラマーゾフ親子の悲劇的結末の裏返しにもなっている。
親から子へ、さらにその子へ、と連鎖する悲劇の頂点にいるからということでなのか。
もちろん、ありきたりな名前だからそんな疑問は愚かしい、といえようけれど。
2.10.10
九月の旅:釜山、ソウル、函館、室蘭、札幌
9月は旅ばかりしていた気がする。
中旬に釜山とソウル。一週間後に函館、室蘭、札幌。
○釜山、ソウル
韓国は出張りだが、私事としても楽しめた。
釜山は中心地ではなく郊外のリゾート地のようなところに少しだけいた。
広安大橋に沿ったビーチで、のんびりビールを飲んだぐらい。
ソウルは驚くほどの大都市で、東京より巨大かもしれない印象だった。
看板の犇めく小道、といったアジア的風景は、都心にはほとんど残っていない。
ハングルのわからない自分にとって、
街の風景は意味を介さずにただ高層ビルが建ち並び、
イルミネーションが輝き、賑わう。
漢字と仮名のわからない外国人にとって、東京はこんな感じだろう。
無国籍的で、人と車だけが多く、ときに過剰なほど整備されている。
コンビニが多く、マンションと商店が入り雑じり、
電線が張り巡らされている、といった街並は、日本と違わない。
それでも、違うところもあちこちにある。
まず、建築物の高さ規制が異なるためだろう、
おしなべて街のビルは20階ぐらいある。
また、90年代にICT化に国力を挙げた結果として、
地下鉄や店舗の標示はすべて大きな液晶画面だったりする。
公共交通機関の磁気カード化は日本より早かったし、
車輌内の冷房が効き過ぎていれば、
車掌に云うのではなく携帯メールで本社に伝えることで
すぐに対応してもらえるという。
ちなみに、ソウル地下鉄の磁気カード導入は、
現大統領李明博がソウル市長時代に進めた。
大統領にソウル市長経験者が多いのは、
票の集中という意味で一極集中の弊害だろう。
SKYを頂点とする学歴、日本占領中に完全に確立された学制のなごりで、
旧京城帝国大学のソウル大学校は、今なお学歴の頂点にある。
内申点が大学受験にまでものをいうため、
ボランティア活動などの実績はアルバイトに代行されることさえあるらしい。
現代やロッテやLGといった財閥の支配する社会では、
経済活動はすべて財閥が担うため、
メセナは望ましいもの以上に、格差是正としてなくてはならない。
また、ごく最近に民法が改正されるまでは、同じ名字の氏族同士では
たとえはるか遠い親戚であっても結婚はできなかったらしい。
日本以上に厳しい家制度が色濃く残っているのだ。
これらのことは、通訳と話して初めて知ったことだ。
日本文化が全面解禁されて10年も経たないとは。
首都の賑わいと地方の疲弊の格差は日本以上だが、
アジア的な一極集中型経済成長のためか、
日本と同様の格差の端緒なのかはわからない。
世界遺産の宗廟に赴いた。
チマチョゴリを着たガイドが日本語で随所を解説してくれる。
一見すると日本と変わらない歴史的建造物も、
池の四角や木々の配置が陰陽道に基づいていたりして、違いがある。
また、三一独立運動の起こった都心の公園なども観た。
○函館、室蘭、札幌
朝の五時前に起き、早朝便に自転車ごと乗って八時に来函。
トラピスチヌ修道院を見物してから、海岸線に沿って市内へ向かう。
五稜郭には箱館奉行所が復元されていて、観光客も多かった。
ストラスブールの博物館で観た
古い星状形の城壁(三重ほどもあったが)を思い出した。
それに較べれば五稜郭はやはり簡素で、国衙と呼ぶのがふさわしい印象。
北海道教育大学函館校へ迂回してから、路面電車に沿って旧市街へ。
途中、吉田商店で食べたスープカレーは非常に美味だった。
箱館山の脇を抜けて立待岬へ。
晴れていて、下北半島も津軽半島も見えた。
波の風と照り返しが心地よく、いつまでもいたかった。
箱館山の山道を伝って市街地へ戻る途中、
木々の隙間から俯瞰する景色は、綺麗だった。
陸繋島の上にという函館の立地が、一目瞭然。
元町の教会を見物し、西の海岸にある寺も見た。
函館八幡宮、函館護国神社を含めてむしろ寺院に興味があったのは、
江戸から明治の時代に平定した土地が
どのように日本に組み入れられたかを知る重要な史跡だからだ。
予想通り、各宗派の寺や八幡宮は松前藩時代(あるいはそれ以前)からある。
そして、中央集権的な東本願寺や護国神社は、教会とともに明治期に現れた。
古い寺が、旧市街地から続く西海岸沿いからみた郊外に建ち、
外国人居留地として開発された元町に新しい寺と教会が並ぶ、
というコントラストが、この歴史を裏打ちしているように思えた。
函館市文学館の石川啄木の詳細な解説は、なかなか見所があった。
明治の文学者らしくジャーナリスティックな正義感が貫かれていた。
旧イギリス領事館の中には、見所はなかった。
翌朝、函館本線の特急にて輪行した。
東室蘭駅からバス風の一両編成に乗って、室蘭駅に到着。
がらんとした旧駅舎で観光地図を得て、
白鳥大橋のあたりから少し丘を登る。
大黒島へ伸びた防波堤、大橋や風力発電、その向こう岸の工場が、
海とともに一つの景色に入っていて、綺麗だった。
丘には団地、家々がゆとりを持って立ち並ぶ。
緑と空が暖かい。夏も終わる。
市街地に戻ってカレーラーメンなるものを食べたのち、再び海岸線へ。
室蘭の外海の海岸線は、どこも崖になっている。
崖に挟まれた電信海岸は入り江のように湾曲していて、
中上健次『奇蹟』の冒頭の描写を思い出させた。
近くの本町神社は倒潰していた。
道路に沿って地球岬へ。
海岸線の地名はチャラツナイ、トッカリショなど、アイヌ神話の宝庫だ。
チケプというアイヌ地名に由来する地球岬は、
観光客と観光オブジェの多い興醒めなところだったが、
それでも眺望の感動には代えられない。
東室蘭へ向かう道道に沿って走る。海側はススキ野原になっていて、
崖の岩肌の落ち込む下が海岸だ。
人はいない、風がたえず耳に鳴るのみ。殺伐としている。
次第に、一戸建ての団地が道路沿いに見える。
見下ろすと、巨大な工場が煙を吐いている。
室蘭は観光客が来るとはいえ、あくまで新日鐵の街だ。
事前の観光下調べでは情報不足だったし、
宿泊施設も少なかった、その理由を見た気がした。
平地は建物も煤けて見える。
そのために、宅地は山を上ったのかもしれない。
東室蘭に着いた。団地がちの街には、何もない。
印象深かった長嶋有の『猛スピードで母は』の舞台は、
室蘭駅周辺ではなくこちらだろう、と直感した。
夕食の場所を探すのに苦労し、結局は地元民で賑わう廻転寿司に落ち着いた。
掛け値なしに旨かった。
ただし、あまりに何もないあまり、朝は朝食場所に苦労することになる。
都市間高速バスに乗って、札幌へ。
移動途中は雨天だったが、到着直前に陽が射した。
札幌ではつてを借り、北大恵迪寮に二泊させてもらう。
手土産として酒を買い込んだ。
寮の屋上に上がると、パノプティコン的な配置がよくわかる。
また、札幌のビル群が一望できた。
知人の寮部屋の人たちとともにラーメンを食した後、自転車で出発。
大通公園を西へ走って、円山公園と北海道神宮を見物。
さらに道行きを進め、宮の森ジャンプ台を見上げてから、帰寮。
晩は、寮生が共用棟で寮歌を歌う"寮歌勉(りょかべん)"や、
週に一度、自治会によって振る舞われる"スペシャル"に、
奇しくも行き当たることができた。
手土産に一箱持って行ったサッポロクラシックに、大いに盛り上がった。
自治寮同士、交流があるようだ。
東北大学の自治寮の云々も、詳しい人は知っていた。
札幌二日目。モエレ沼公園に赴く。
イサム・ノグチ設計の幾何学的な庭園だ。
圧巻という噴水は残念ながら観られなかったが、
折しも、ツール・ド・北海道なるものを実施していて、
種々のロードバイクや、さらにはリカンベントも見かけた。
綺麗な円錐形のモエレ山に登ると、
すごい強風で、人々はみな声を張っていた。
いつまでも風に身をはためかせながら佇んでいたかった。
市街地に戻り、サッポロビール博物館で雨に降り籠められた。
雨後、道いっぱいに広がった水たまりの照り返しに、
わずかも目を開けていられなかった。
次に行った中島公園にて陽が暮れた。
夕は、留学仲間で札幌にUターン就職した友人に三年ぶりに会った。
夕食をとりつつお互いに近況を報告しあい、楽しかった。
帰寮すると、部屋員の多くが出ていて、
昨日とは打って変わった静かな夜だった。
夕食は食べたものの、エッセンは頂いた。
旅行最終日。
札幌駅前で、往路と同じようにリアディレイラーを外して
スポークに固定し、折り畳んで輪行袋に入れて肩から提げた。
空港内で食べたモスバーガーの地域限定メニューのザンギバーガーは、
帰浜後にさっそく横浜駅西口のモスバーガーで幟を見かけ、落胆した。
夏の終わりの四泊五日の道南の旅は、これで終了。
天気予報を見ながら最後まで決しかねた輪行は、結局して正解だった。
また、飛行機の預け荷物としても、車体に傷はつかなかったし、
自転車が足となることで、函館と室蘭の二市では主な名所史跡はほぼ網羅できた。
また、室蘭の海岸沿いのサイクリングは、本当に心地よかった。
中旬に釜山とソウル。一週間後に函館、室蘭、札幌。
○釜山、ソウル
韓国は出張りだが、私事としても楽しめた。
釜山は中心地ではなく郊外のリゾート地のようなところに少しだけいた。
広安大橋に沿ったビーチで、のんびりビールを飲んだぐらい。
ソウルは驚くほどの大都市で、東京より巨大かもしれない印象だった。
看板の犇めく小道、といったアジア的風景は、都心にはほとんど残っていない。
ハングルのわからない自分にとって、
街の風景は意味を介さずにただ高層ビルが建ち並び、
イルミネーションが輝き、賑わう。
漢字と仮名のわからない外国人にとって、東京はこんな感じだろう。
無国籍的で、人と車だけが多く、ときに過剰なほど整備されている。
コンビニが多く、マンションと商店が入り雑じり、
電線が張り巡らされている、といった街並は、日本と違わない。
それでも、違うところもあちこちにある。
まず、建築物の高さ規制が異なるためだろう、
おしなべて街のビルは20階ぐらいある。
また、90年代にICT化に国力を挙げた結果として、
地下鉄や店舗の標示はすべて大きな液晶画面だったりする。
公共交通機関の磁気カード化は日本より早かったし、
車輌内の冷房が効き過ぎていれば、
車掌に云うのではなく携帯メールで本社に伝えることで
すぐに対応してもらえるという。
ちなみに、ソウル地下鉄の磁気カード導入は、
現大統領李明博がソウル市長時代に進めた。
大統領にソウル市長経験者が多いのは、
票の集中という意味で一極集中の弊害だろう。
SKYを頂点とする学歴、日本占領中に完全に確立された学制のなごりで、
旧京城帝国大学のソウル大学校は、今なお学歴の頂点にある。
内申点が大学受験にまでものをいうため、
ボランティア活動などの実績はアルバイトに代行されることさえあるらしい。
現代やロッテやLGといった財閥の支配する社会では、
経済活動はすべて財閥が担うため、
メセナは望ましいもの以上に、格差是正としてなくてはならない。
また、ごく最近に民法が改正されるまでは、同じ名字の氏族同士では
たとえはるか遠い親戚であっても結婚はできなかったらしい。
日本以上に厳しい家制度が色濃く残っているのだ。
これらのことは、通訳と話して初めて知ったことだ。
日本文化が全面解禁されて10年も経たないとは。
首都の賑わいと地方の疲弊の格差は日本以上だが、
アジア的な一極集中型経済成長のためか、
日本と同様の格差の端緒なのかはわからない。
世界遺産の宗廟に赴いた。
チマチョゴリを着たガイドが日本語で随所を解説してくれる。
一見すると日本と変わらない歴史的建造物も、
池の四角や木々の配置が陰陽道に基づいていたりして、違いがある。
また、三一独立運動の起こった都心の公園なども観た。
○函館、室蘭、札幌
朝の五時前に起き、早朝便に自転車ごと乗って八時に来函。
トラピスチヌ修道院を見物してから、海岸線に沿って市内へ向かう。
五稜郭には箱館奉行所が復元されていて、観光客も多かった。
ストラスブールの博物館で観た
古い星状形の城壁(三重ほどもあったが)を思い出した。
それに較べれば五稜郭はやはり簡素で、国衙と呼ぶのがふさわしい印象。
北海道教育大学函館校へ迂回してから、路面電車に沿って旧市街へ。
途中、吉田商店で食べたスープカレーは非常に美味だった。
箱館山の脇を抜けて立待岬へ。
晴れていて、下北半島も津軽半島も見えた。
波の風と照り返しが心地よく、いつまでもいたかった。
箱館山の山道を伝って市街地へ戻る途中、
木々の隙間から俯瞰する景色は、綺麗だった。
陸繋島の上にという函館の立地が、一目瞭然。
元町の教会を見物し、西の海岸にある寺も見た。
函館八幡宮、函館護国神社を含めてむしろ寺院に興味があったのは、
江戸から明治の時代に平定した土地が
どのように日本に組み入れられたかを知る重要な史跡だからだ。
予想通り、各宗派の寺や八幡宮は松前藩時代(あるいはそれ以前)からある。
そして、中央集権的な東本願寺や護国神社は、教会とともに明治期に現れた。
古い寺が、旧市街地から続く西海岸沿いからみた郊外に建ち、
外国人居留地として開発された元町に新しい寺と教会が並ぶ、
というコントラストが、この歴史を裏打ちしているように思えた。
函館市文学館の石川啄木の詳細な解説は、なかなか見所があった。
明治の文学者らしくジャーナリスティックな正義感が貫かれていた。
旧イギリス領事館の中には、見所はなかった。
翌朝、函館本線の特急にて輪行した。
東室蘭駅からバス風の一両編成に乗って、室蘭駅に到着。
がらんとした旧駅舎で観光地図を得て、
白鳥大橋のあたりから少し丘を登る。
大黒島へ伸びた防波堤、大橋や風力発電、その向こう岸の工場が、
海とともに一つの景色に入っていて、綺麗だった。
丘には団地、家々がゆとりを持って立ち並ぶ。
緑と空が暖かい。夏も終わる。
市街地に戻ってカレーラーメンなるものを食べたのち、再び海岸線へ。
室蘭の外海の海岸線は、どこも崖になっている。
崖に挟まれた電信海岸は入り江のように湾曲していて、
中上健次『奇蹟』の冒頭の描写を思い出させた。
近くの本町神社は倒潰していた。
道路に沿って地球岬へ。
海岸線の地名はチャラツナイ、トッカリショなど、アイヌ神話の宝庫だ。
チケプというアイヌ地名に由来する地球岬は、
観光客と観光オブジェの多い興醒めなところだったが、
それでも眺望の感動には代えられない。
東室蘭へ向かう道道に沿って走る。海側はススキ野原になっていて、
崖の岩肌の落ち込む下が海岸だ。
人はいない、風がたえず耳に鳴るのみ。殺伐としている。
次第に、一戸建ての団地が道路沿いに見える。
見下ろすと、巨大な工場が煙を吐いている。
室蘭は観光客が来るとはいえ、あくまで新日鐵の街だ。
事前の観光下調べでは情報不足だったし、
宿泊施設も少なかった、その理由を見た気がした。
平地は建物も煤けて見える。
そのために、宅地は山を上ったのかもしれない。
東室蘭に着いた。団地がちの街には、何もない。
印象深かった長嶋有の『猛スピードで母は』の舞台は、
室蘭駅周辺ではなくこちらだろう、と直感した。
夕食の場所を探すのに苦労し、結局は地元民で賑わう廻転寿司に落ち着いた。
掛け値なしに旨かった。
ただし、あまりに何もないあまり、朝は朝食場所に苦労することになる。
都市間高速バスに乗って、札幌へ。
移動途中は雨天だったが、到着直前に陽が射した。
札幌ではつてを借り、北大恵迪寮に二泊させてもらう。
手土産として酒を買い込んだ。
寮の屋上に上がると、パノプティコン的な配置がよくわかる。
また、札幌のビル群が一望できた。
知人の寮部屋の人たちとともにラーメンを食した後、自転車で出発。
大通公園を西へ走って、円山公園と北海道神宮を見物。
さらに道行きを進め、宮の森ジャンプ台を見上げてから、帰寮。
晩は、寮生が共用棟で寮歌を歌う"寮歌勉(りょかべん)"や、
週に一度、自治会によって振る舞われる"スペシャル"に、
奇しくも行き当たることができた。
手土産に一箱持って行ったサッポロクラシックに、大いに盛り上がった。
自治寮同士、交流があるようだ。
東北大学の自治寮の云々も、詳しい人は知っていた。
札幌二日目。モエレ沼公園に赴く。
イサム・ノグチ設計の幾何学的な庭園だ。
圧巻という噴水は残念ながら観られなかったが、
折しも、ツール・ド・北海道なるものを実施していて、
種々のロードバイクや、さらにはリカンベントも見かけた。
綺麗な円錐形のモエレ山に登ると、
すごい強風で、人々はみな声を張っていた。
いつまでも風に身をはためかせながら佇んでいたかった。
市街地に戻り、サッポロビール博物館で雨に降り籠められた。
雨後、道いっぱいに広がった水たまりの照り返しに、
わずかも目を開けていられなかった。
次に行った中島公園にて陽が暮れた。
夕は、留学仲間で札幌にUターン就職した友人に三年ぶりに会った。
夕食をとりつつお互いに近況を報告しあい、楽しかった。
帰寮すると、部屋員の多くが出ていて、
昨日とは打って変わった静かな夜だった。
夕食は食べたものの、エッセンは頂いた。
旅行最終日。
札幌駅前で、往路と同じようにリアディレイラーを外して
スポークに固定し、折り畳んで輪行袋に入れて肩から提げた。
空港内で食べたモスバーガーの地域限定メニューのザンギバーガーは、
帰浜後にさっそく横浜駅西口のモスバーガーで幟を見かけ、落胆した。
夏の終わりの四泊五日の道南の旅は、これで終了。
天気予報を見ながら最後まで決しかねた輪行は、結局して正解だった。
また、飛行機の預け荷物としても、車体に傷はつかなかったし、
自転車が足となることで、函館と室蘭の二市では主な名所史跡はほぼ網羅できた。
また、室蘭の海岸沿いのサイクリングは、本当に心地よかった。
3.9.10
武蔵野輪走記
9月1日 東京都心縦断
9時前に横浜を出発し、国道1号線沿いに北上。
池上本門寺にて、一般公開していた松濤園を見学。
国道に戻ってさらに道行きを続ける。
町並みが高層ビルを孕み始め、高層ビルばかりになり、
さらに高層化しつつ道路が太くなり複雑に交差を始める、
有機体のような街の深部へと走る。
桜田門から内堀国民公園へ入って一休みし、
大手前から御茶ノ水へ。
体裁がまるで寺の湯島の聖堂を見学し、
名がなければ見向きもしない昌平坂を通る。
外堀通(都道405号線)を西へ向かい、
水道橋から白山通り(都道301号線)を北へ。
東大本郷キャンパスでの食事は、
学食でのカツ丼に個人的な思い入れがあるので、カツ丼。
東北大の方が量も多いし安いし、美味だ、と思った。
七大戦の幟が立っていた。今年は東大での実施か。
本郷通り(都道455号線)を北上する道には、思いのほか寺が多い。
千代田城の北東の鬼門を塞ぐべく、昔は寺内町だったのかもしれない。
小石川で不忍通り(都道437号線)へ入って南下、護国寺を見物。
徳川にしろ宮家にしろ、庇護を受けた寺社というのは
正統派の構えのためか見所は少ない。
首都高速5号池袋線の下の道路を走って
東池袋を通って明治通り(都道305号線)を北へ。
サドルと体重に挟まれた臀部と、
前傾姿勢とハンドルの隙の掌が、共に痛くなる。
王子駅手前の飛鳥山で、渋沢史料館が有料というのに失望してから
北本通り(国道122号線)に沿ってひたすらペダルを漕ぐ。
赤羽岩淵から環状八号(都道331号線)に入り、高島平を目指す。
しかしうまく都営三田線に沿うことが出来ないまま東武東上線を横断。
ようやく軌道を修正して沿線上を北上、成増に到着。
まだ時間があったので、埼玉県和光市から
県道88号線に沿うように走り、荒川の土手へ。
夕陽はそこから眺める中で地平の平たい山々に沈んだ。
風が心地よかった。
走行距離75km。
9月2日 埼玉県中部の田園と川越
成増駅から東武東上線森林公園駅(埼玉県比企郡滑川町)へ輪行。
森林公園緑道の自転車道に沿ってから森林公園南入口で折れ、
県道307号線に入って森林公園中央入口を横切る。
森林公園の敷地面積の広さに驚く。
そのまま東へ向かうつもりが県道391号線へと
入ってしまい、東松山市中心部へ至った。
吉見町にある岩室観音堂と吉見百穴を見物。
吉見百穴は古墳時代の横穴で、第二次大戦中は
遺跡を破壊して地下軍需工場が建設されたところ。
明治の最初の調査では、土蜘蛛人の
住居跡などという珍説があったらしい。
ヒカリゴケも自生しているらしく、覗いてみたが、
光っていると云われれば光っている気がしないでもない、
まぁその程度のものだった。
国道407号線、一部で県道27号線を通って南へひた走る。
道幅が狭い上に産業道路化しており、
自転車にとって走りにくかった。
県道256号線に入り、田畑と集落の隙間を縫うように迷いながら
順調に川越市街へ向かう。
集落内の少なくない家々が家紋の入った土倉を有しており、
江戸時代に商品作物で財を成したのだろうか、と勘ぐってみた。
中仙道のバイパスとして賑わった川越街道の終着点の川越は、
小江戸として町屋や蔵造りの並ぶ街並みでも知られる。
高麗通り(県道39号線)から市街地入りし、
菓子屋横丁を歩いて通過、川越氷川神社で休憩。
南下し、街並みを見ながらさらに進む。
大正ロマン通り、なんてのもあった。
寺社めぐりもそこそこに、川越駅から東上線に乗った。
ただし、乗るべき電車を間違えて、池袋をUターンして成増へ帰着。
走行距離45km。
この日に供されたスープカレーは、いつものどおり、
そしていつにも増して美味しかった。
9月3日 野火止用水、多摩湖、所沢
埼玉県和光市を出発し、国道254号線に沿って朝霞市を抜け、新座市へ。
新座署の交差点で国道を離れ、
平林寺の脇を通って野火止用水に沿ってひたすら進む。
水道道路という名称で、交通量は比較的多い。
新座市から東京都東久留米市に入って都道15号線になる。
川崎市にある二ヶ領用水は知っていたが、野火止用水は知らなかった。
武蔵野台地の乾燥地には必需品だったのだろうという連想よりも、
野火を止めようというその名称の必死さを思い浮かべた。
都道15号線から新青梅街道(都道5号線)へ折れる角に、
東京ガスの運営する「がす資料館」というのがあったので、
休憩も兼ねて見学。「ガスピアノ」なる楽器と、
時代を見透かせる広告の変遷が、面白かった。
小平霊園の脇を抜けて、西武多摩湖線に導かれるようにして多摩湖へ。
東京水道局管轄の溜め池で、東京の水がめということになるだろう。
湖に沿って自転車道があり、楽しめた。
多摩湖と狭山湖はほぼ隣接するが、前者は東京都、後者は埼玉県の域内だ。
二つの湖に挟まれた西武球場の近くに、金乗院、狭山不動尊があった。
金乗院は丹や群青が鮮やかなだけでなく柱や塀に龍が縁取られていたりと、
変わった風貌の建物だった。
狭山不動尊は徳川家光の縁起。
県道55号線に沿って所沢市街へと走り、所沢航空記念公園へ。
日本初の飛行成功と日本初の飛行機事故の場所だ。
駅前のYS-11と記念館前のC-46を除いて見所はなかったので、
自転車置き場でサックスを吹き続けていた老人の脇で地図を見て出発。
産業道路化して大型車両ばかりがすれすれを通過する国道463号線を走り、
滝の城址公園へ行き損ねて通過した県道179号線、
再び国道463号線を経て、往路の国道273号線へ入り、南下して和光市へ帰着。
走行距離55km。
9時前に横浜を出発し、国道1号線沿いに北上。
池上本門寺にて、一般公開していた松濤園を見学。
国道に戻ってさらに道行きを続ける。
町並みが高層ビルを孕み始め、高層ビルばかりになり、
さらに高層化しつつ道路が太くなり複雑に交差を始める、
有機体のような街の深部へと走る。
桜田門から内堀国民公園へ入って一休みし、
大手前から御茶ノ水へ。
体裁がまるで寺の湯島の聖堂を見学し、
名がなければ見向きもしない昌平坂を通る。
外堀通(都道405号線)を西へ向かい、
水道橋から白山通り(都道301号線)を北へ。
東大本郷キャンパスでの食事は、
学食でのカツ丼に個人的な思い入れがあるので、カツ丼。
東北大の方が量も多いし安いし、美味だ、と思った。
七大戦の幟が立っていた。今年は東大での実施か。
本郷通り(都道455号線)を北上する道には、思いのほか寺が多い。
千代田城の北東の鬼門を塞ぐべく、昔は寺内町だったのかもしれない。
小石川で不忍通り(都道437号線)へ入って南下、護国寺を見物。
徳川にしろ宮家にしろ、庇護を受けた寺社というのは
正統派の構えのためか見所は少ない。
首都高速5号池袋線の下の道路を走って
東池袋を通って明治通り(都道305号線)を北へ。
サドルと体重に挟まれた臀部と、
前傾姿勢とハンドルの隙の掌が、共に痛くなる。
王子駅手前の飛鳥山で、渋沢史料館が有料というのに失望してから
北本通り(国道122号線)に沿ってひたすらペダルを漕ぐ。
赤羽岩淵から環状八号(都道331号線)に入り、高島平を目指す。
しかしうまく都営三田線に沿うことが出来ないまま東武東上線を横断。
ようやく軌道を修正して沿線上を北上、成増に到着。
まだ時間があったので、埼玉県和光市から
県道88号線に沿うように走り、荒川の土手へ。
夕陽はそこから眺める中で地平の平たい山々に沈んだ。
風が心地よかった。
走行距離75km。
9月2日 埼玉県中部の田園と川越
成増駅から東武東上線森林公園駅(埼玉県比企郡滑川町)へ輪行。
森林公園緑道の自転車道に沿ってから森林公園南入口で折れ、
県道307号線に入って森林公園中央入口を横切る。
森林公園の敷地面積の広さに驚く。
そのまま東へ向かうつもりが県道391号線へと
入ってしまい、東松山市中心部へ至った。
吉見町にある岩室観音堂と吉見百穴を見物。
吉見百穴は古墳時代の横穴で、第二次大戦中は
遺跡を破壊して地下軍需工場が建設されたところ。
明治の最初の調査では、土蜘蛛人の
住居跡などという珍説があったらしい。
ヒカリゴケも自生しているらしく、覗いてみたが、
光っていると云われれば光っている気がしないでもない、
まぁその程度のものだった。
国道407号線、一部で県道27号線を通って南へひた走る。
道幅が狭い上に産業道路化しており、
自転車にとって走りにくかった。
県道256号線に入り、田畑と集落の隙間を縫うように迷いながら
順調に川越市街へ向かう。
集落内の少なくない家々が家紋の入った土倉を有しており、
江戸時代に商品作物で財を成したのだろうか、と勘ぐってみた。
中仙道のバイパスとして賑わった川越街道の終着点の川越は、
小江戸として町屋や蔵造りの並ぶ街並みでも知られる。
高麗通り(県道39号線)から市街地入りし、
菓子屋横丁を歩いて通過、川越氷川神社で休憩。
南下し、街並みを見ながらさらに進む。
大正ロマン通り、なんてのもあった。
寺社めぐりもそこそこに、川越駅から東上線に乗った。
ただし、乗るべき電車を間違えて、池袋をUターンして成増へ帰着。
走行距離45km。
この日に供されたスープカレーは、いつものどおり、
そしていつにも増して美味しかった。
9月3日 野火止用水、多摩湖、所沢
埼玉県和光市を出発し、国道254号線に沿って朝霞市を抜け、新座市へ。
新座署の交差点で国道を離れ、
平林寺の脇を通って野火止用水に沿ってひたすら進む。
水道道路という名称で、交通量は比較的多い。
新座市から東京都東久留米市に入って都道15号線になる。
川崎市にある二ヶ領用水は知っていたが、野火止用水は知らなかった。
武蔵野台地の乾燥地には必需品だったのだろうという連想よりも、
野火を止めようというその名称の必死さを思い浮かべた。
都道15号線から新青梅街道(都道5号線)へ折れる角に、
東京ガスの運営する「がす資料館」というのがあったので、
休憩も兼ねて見学。「ガスピアノ」なる楽器と、
時代を見透かせる広告の変遷が、面白かった。
小平霊園の脇を抜けて、西武多摩湖線に導かれるようにして多摩湖へ。
東京水道局管轄の溜め池で、東京の水がめということになるだろう。
湖に沿って自転車道があり、楽しめた。
多摩湖と狭山湖はほぼ隣接するが、前者は東京都、後者は埼玉県の域内だ。
二つの湖に挟まれた西武球場の近くに、金乗院、狭山不動尊があった。
金乗院は丹や群青が鮮やかなだけでなく柱や塀に龍が縁取られていたりと、
変わった風貌の建物だった。
狭山不動尊は徳川家光の縁起。
県道55号線に沿って所沢市街へと走り、所沢航空記念公園へ。
日本初の飛行成功と日本初の飛行機事故の場所だ。
駅前のYS-11と記念館前のC-46を除いて見所はなかったので、
自転車置き場でサックスを吹き続けていた老人の脇で地図を見て出発。
産業道路化して大型車両ばかりがすれすれを通過する国道463号線を走り、
滝の城址公園へ行き損ねて通過した県道179号線、
再び国道463号線を経て、往路の国道273号線へ入り、南下して和光市へ帰着。
走行距離55km。
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