米川正夫訳で読んだ。
このすさまじくも暖かい長篇を読み了るまで、一ヶ月もかかった。
今日、残る1/6ほどを一思いに読み切った。
主題は幾つも挙げられよう。
ロシアの精神性や庶民性、教育論、父と子の関係、冤罪、
そしてドストエフスキーという作家の主題である魂の救済…。
ひとまずここでは、自分の気づいた点だけ感想代わりにメモしておく。
記述(著者の視点というべきか)が非常に記者的だということが気になった。
文体と片づける以上のものがあるように思えてならない。
ドミートリイの行動を逐一追って記述が展開されるだけでなく、
検事側と弁護士側、そして大衆がそれぞれその流れをなぞる、
その行為そのものが野家啓一ふうにいえば「物語の再構成」になるからだ。
そして、そうして取りこぼされた事実のために、あってはならない冤罪が生じる。
これが一点。
そして、最後に殺される「父親」フョードルという、ある種の諸悪の根源に、
ドストエフスキーはなぜ自分の名を冠したのだろうか、という疑問。
物語の末尾で子供たちの挿話では、
半気狂いの両親と友人たちに見送られながらイリューシャが弔われる。
これは、弁護士の弁論で主張される教育論とも共鳴するし、
カラマーゾフ親子の悲劇的結末の裏返しにもなっている。
親から子へ、さらにその子へ、と連鎖する悲劇の頂点にいるからということでなのか。
もちろん、ありきたりな名前だからそんな疑問は愚かしい、といえようけれど。
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