18.8.20

クルコフ『ペンギンの憂鬱』、隈研吾『負ける建築』、高坂正堯『文明が衰亡するとき』、小林恭二『短歌パラダイス』、ウエルベック『セロトニン』、鄭義『神樹』、オースター『トゥルー・ストーリーズ』

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』

主人公ヴィクトル、うつ病のペンギンのミーシャを中心に、
小市民らしい静かな生活が楽しく、やや物憂げに過ぎてゆく。
その背後で、関わりのある人たちが死んだり失踪したりし、
ヴィクトルの生業とする殺人予告めいた追悼記事がいったい何なのか、徐々に明らかになる。

確かにそこにあるはずの日常を人が暮らしているのに、
その当たり前が地に足のついていない宙ぶらりんで揺れている。
ヴィクトルは徐々に擬似的な家族のようなものに囲まれ、
それはままごとのようにどことなく楽しげだが、
それは単なるシェルターであって、結局は崩れる。

真実を知ったことでヴィクトルは自らを流刑に処するが、
語り手は真実への欲求を否定も肯定もしない。
ただ淡々と、なりゆきとして描く。
この口調の静けさは、因果をどうしようもなく抗いがたいものとして呈示する装置のようだ。
どうしようもない世界がわれわれの終わりのない日常に接続するきっかけが、
嘆息さえできない受け身な態度にあるかのように。

ペンギンは天皇だと思った。
自由にペタペタ動き回りながらも自由は無く、
大切にされながらも語り合う相手を欠いて、
ただペンギンとして持ち上げられ、ただ世界を哀しむだけの存在。

隈研吾『負ける建築』

ミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエは当時の建築の権威の外から登場し、
中産階級向けの郊外型個人住宅を武器として、20世紀の建築界に君臨する。
一世代前の表現主義を否定し、構成主義をも取り去り、周囲を圧倒してそれ自体で屹立する。
そのような建築は20世紀の中産階級の拡大と結託し、
商品そのものでありながら広告として流通した。

デ・ステイルの空間調和が美学的に優れていながらも結局は旧テクノロジーの域を出ず、
ミースに負けたというところは、
ちょうど国立国際美術館の「インポッシブル・アーキテクチャー」展で
エーリッヒ・メンデルスゾーンの「アインシュタイン塔」などの
不思議な優しい空間美を見ていたので、合点がいった。

蛇足だが、本著の必要以上に断定的な語り口は、
著者もまた広告的な建築家であるという一面を垣間見させる気がした。

高坂正堯『文明が衰亡するとき』

新潮選書。
もとは1981年の刊行。
アメリカの"現代"の衰退を描く視点がいかにも鼻につく"日本 as No.1"であって、
隔世の感を覚えずにいられない。
現代を早々に総括することの危険性がよく例示されている。

3つのテーマの残りはローマとヴェネツィアで、
ローマはギボンを依拠して書かれたところが大きい。
一方、ヴェネツィアが小さな都市国家ながらいかに大航海時代に君臨したか、
そのくだりは非常に興味深かった。
強力な政治体制でありながら、腐敗と恣意性を排除するためくじ引きが組み込まれており、
国家や政治は人為的というより人工的なものである、という、日本では得難い示唆を得た。

小林恭二『短歌パラダイス ─歌合 二十四番勝負─』

岩波新書。
1996年3月30日と翌31日の熱海での歌合のドキュメンタリー(?)だ。
岡井隆や高橋睦郎のような当時としても大家がいて、
当時はまだ若手だろう穂村弘や東直子も加わっている。

歌合なので、歌人たちのよる合評がおもしろい。
口角泡を飛ばすような白熱が、よくわからないがおかしな掛け合いも生むが、
はっとするような解釈をも引き出して、短歌を味わうための指南にもなっている。

家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな
は大滝和子。
本著でも絶賛されているとおり、やはり唸るような味わいがあった。
「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの
は、俵万智。
二句の静かな感情の荒れが、その作風とあまりにかけ離れた感じもあって、驚きだった。
水原紫苑が(美しいのだが)ぎりぎりよくわからない歌を詠んでいて、人物が見えた。

ミシェル・ウエルベック『セロトニン』

フランス人中年男性の研究職の人間が自己失踪して、
過去をめぐりながら、そのどこにも行き着けずに郊外で孤独な自己延命に落ち着く。
主人公のモンサントに勤めていた過去や、
有機農業に従事するものの採算が合わずに破滅的な最期を迎えるシーンなど、
グローバル経済が随所に散りばめられていて、
自由とへの強い懐疑がテーマとしてある。
が、自分がもっとも心に焼きついたのは、
かつての恋人でいまはシングルマザーとなったカミーユの居場所を突き止め、
その子どもを湖の対岸から銃殺しようとするシーンだった。
ウエルベックの小説では、世代間の絶対的な不和がよく現れる。
自由経済の世界を切り拓いたゆえに親世代を唾棄しているかのようだ。
親世代がどうしようもない世界を相続することで、子世代を嬉々として苦しめる、
その構図の連鎖が続くことをなんとか耐える、という、
おそらく本著で唯一の温かい結末に思えるからだろう。
それでいて、あまりに寒々しく、物哀しいのだが。

鄭義『神樹』

神樹が花を咲かせ、村での中国の近現代史が語られる。
それが最終的に権力によって切り倒され、村は跡形もなく消え去ってしまう。
歴史と物語は、権力によって語られることを禁じされているらしい。

さまざまなエピソードがどれもどぎつくて、読み応えがあるのに疲れてしまう。
子どもを生き埋めにする話、
木に吊るされた地主階級の身体が潰れてもなお牛のような目が睨んでいる話、
言い間違えが支部書記を一瞬にして革命敵に変じる話、……。
あとがきで作者が、どれも多かれ少なかれ現地で聞き取った事実だと明かしていて、
そのことに驚いた。神樹さえも。

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

偶然が織りなすできごとの描写はどれもよくできた掌編のようだし、
半生を語る文章もまた面白い。

オースターの常で、あっという間に読み終えた。
柴田元幸の訳の巧みさからか。
そして、オースターの文体は小説でなくこのような文章でも同じで、
人物描写が前面に出てからストーリーはエピソード的に語られる。
特徴的な場面が散りばめられ、感情と分析がそれを把握し説明する具合だ。

19.4.20

尾崎翠「第七官界彷徨」、アガンベン『例外状態』

尾崎翠「第七官界彷徨」

優しい雰囲気と心理戦のある内田百閒作品、といった読後感だった。
ストーリーがあるようで無く、読み返せばおそらく楽しい、
そういう叙事詩のような小説だった。

ジョルジョ・アガンベン『例外状態』

例外状態がいよいよ始まろうとする3月下旬の三連休、
梅田の人出の多さに行く末の恐ろしさを案じつつ書店で見つけ、
その後、入手し、辛くも読み切ることができた。
とはいえ、3割も理解できていないだろう。
以下、断片的なメモ。

第2章までで、例外状態における法秩序がいかに
例外状態を掌中に入れて操作対象とするかが、示される。
例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。しかしながら、ここでは決定は規範の無化そのものにかかわっているかぎりで、すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉することであるかぎりで、「主権者は、通常の状態において効力を発揮している法秩序の外にある(steht ausserhalb)が、しかしまた、憲法が全体として停止されうるかいなかの決定に責任を負っているために、その秩序に属している(gehört)のである」(ibid., p. 13)。
 法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。(p.70)
第4章の、ベンヤミンの「暴力批判論」とシュミットの『政治神学』の対比は、
非常に面白かった。
あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。(p.110)
引用以下、ベンヤミンの文章を精緻に分析する作業が、
ベンヤミンとシュミットの論争の行方そのものへ帰着するという、
ダイナミックな地の営みが開示されていて、読み応えがあった。

古代ローマの法停止「ユースティティウム(iustitium)」が服喪と同一化したこと、
カーニヴァルが古代の追放や迫害という制度の残余であること、が紹介され、
法は対立するはずのアノミーと手を組むことで生を包含していることが明かされる。

最終章「権威と権限」では、
古代ローマの元老院が権限を有さず権威によって君臨した事実を傍証として、
権限が権威によって効力を持つということが示され、
メタ法的、アノミー的な「権威」と、法規範としての「権限」の二元が、
まとめとして集約、定義される。

最後に。
法律は欠缺を有しうるが、法=権利は欠缺を認めないとする原則からの類推で、例外状態も公法におけるひとつの欠缺というように解釈され、執行権力がその救済策を講じる義務を有するとされるのである。司法権力にかかわる原則が、こうして執行権力に拡張されるのだ。[...]ここで言われている欠缺は、裁判官によって補充されるべき立法文書における欠落にかかわるものではない。それはむしろ、法秩序の存在を保証するためになされる現行の法秩序の停止と関係しているのだ。例外状態は、規範の欠缺に対応するためにではなく、規範の存在と通常の状況へのその適用可能性を救済する目的で、法秩序のなかにひとつの擬制的な欠缺を開示しようとするものとして現れるのである。欠缺は法律に内在しているのではなくて、法律と現実との関係、法律の適用可能性それ自体と関係したものなのだ。(p.64)
この展開、柄谷行人みたいで、わくわくした。

13.1.20

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』、タタレッラ『Natural Architecture Now』、矢部史郎『夢みる名古屋』

谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』

循環小数のような小説。
谷崎潤一郎の状況説明的な文体が、
猫を焦点としてぐるぐる回ってゆく感じ。

フランチェスカ・タタレッラ『Natural Architecture Now ナチュラル アーキテクチャーの現在』

挙げられている構造物は、建築というよりインスタレーションというべきだ。
多くは屋根を持たないし、
建築としての最低条件たる空間を区切る役割さえ十分に果たさない。
しかし、それゆえに、建築に対する異議申し立てのように語る。
それが面白かった。

特に、アルネ・ケーンズによる木材組みのインスタレーションは、
最後に火を放たれて燃える、という作品だった。
建築が静ならば、ナチュラル・アーキテクチャーは動だし、
剛に対して柔、永に対して瞬だ。
そこには、出会いのようなはかなくも強い印象がある。

矢部史郎『夢みる名古屋 ユートピア空間の形成史』

現代書館・刊。
あとがきで筆者が述べているように、都市論だ。
日本の、あるいは世界中の都市が、
どのように人間に対して構成されてきたかを分析する。
都市の成分を三つの地層に分解すること、すなわち、近代都市計画・モータリゼーション・ジェントリフィケーションを、それぞれに独立した系として考察することは、[...]。そして名古屋の都市構造が、この三つを非常に見えやすい状態で提示していることに驚いた。(p.219)
そのなかでも、日本的な近代化を端的に示していると思われたのが、次の一節。
ここでは、近代化によって近世的なものが崩されていくのではなく、反対に、近世的なものを束ねることによって近代化がめざされていく。近世的な社会と意識が払拭されることはない。近世は保存されながら、近代性へ統合されていくのである。内務省と産業資本が近世的意識を統合し、都市開発と兵器生産に没頭する。行政と産業資本、小地主、小ブルジョアジー、産業労働者、そして軍部が、有機的に結合していく。ファシズムの時代の標本ともいうべき構図が、名古屋にはあらわれていた。(p.41)
マルクスが「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で引用した、
ヘーゲルの「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、2度目は喜劇として」を思わせるが、
日本ではやや違っていて、繰り返すのは歴史ではなく近世だ。
古臭い存在が鵺のように生き延びて、
時代時代に合わせた夢を見るようにして歴史を生成する。
天皇制がまさしくそうだし、財閥の存在もそうだ。

小牧インターチェンジを議論の端緒として、
工業化の内陸化と不可視化を論じる議論は、面白かった。
1978年12月に発生した口裂け女の怪談が、
異常な緊迫感を持って全国に波及する、その裏づけとしての、
人ではなく車を尺度として構築された街の行き場のなさは、
思わず頷かされた。

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』、『同 戦中篇』、柏木惠子『子どもが育つ条件』

『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』『同 戦中篇』

戦時中の暮らしというものがどうだったのか、
その生の声を知りたくて、読む。

物資統制中は大変な思いをしながらも、
それでもかなり良い暮らしをしていたとは驚き。
昭和19年や20年でも、常食でないにしても白米や卵を食べ、
麻雀やポーカーに興じているとは。
知名度にものを言わせて慰問で物資を稼ぐなど、
庶民からすれば苛立ちの種だろう。
もっとも、その時代は臣民一人ひとりに逞しく生きるよう強いた、
その喜劇役者としての一例にすぎないのかもしれない。

年を経るにつれて、敗戦色が濃くなってゆくのが興味深い。
喜劇を弾圧する内務省当局の行き当たりばったりな対応はさながら悲喜劇。
報道が連合国側の動静を知って、
1945年初めにすでにおぼろげに敗戦を予期していたらしいとは驚いた。
もっと言論統制と防諜が効いていて、
そのようなことは話せなかったものと捉えていたが。

いずれにしても、戦時とはいえ、同じ人間が日常を引きずって生きていた、
その普遍性に戦争をかぶせて初めてわかる、その虚しさ。

『戦後篇』『晩年篇』を読み残している。
ちびちび進めながら、今度は戦後の混乱と復興を眺められるぼが楽しみ。

柏木惠子『子どもが育つ条件 ──家族心理学から考える』

岩波新書版。
内容は、「子どもが育つ」というより「大人が育てられる条件」であり、
すなわち、男性の長時間労働と家庭不在への指弾が多い。
2008年初版からここ10年余りで、
男性の育児休業取得にまつわる状況は改善しただろうが、
抜本的には変わっていない現状が見て取れる。

「「先回り育児」がもたらすもの」という章は子育てへの即効性ある智慧であり、
読んでいて納得させられた。
年齢よりは早く習いごとに通わせるより、
子どもに応答的であることが今後必要である、ということ。

2008年初版ということで、10年前の刊行だが、
小学校での英語教育という愚策を許す社会にあって、
その警鐘はより人口に膾炙してしかるべきだと思う。


24.11.19

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代』、山口創『子育てに効くマインドフルネス』、高橋惠子『子育ての知恵』、中村隆英『日本の経済統制』

今尾恵介『地図で読む 戦争の時代 描かれた日本、描かれなかった日本』

都市を焼け野原と化しめた空襲はもちろんのこと、
戦時改描、不要不急線、建物疎開、軍事施設の戦後利用など、
ある程度の知識はあった。
が、地図が実際に証拠づけている様子が解説されるのは、
上意下達と現場の当時のせめぎ合いが浮かんでくるようでもあった。
また、朝鮮、台湾、満洲といった“外地”の地図では、
租界や出自ごとの地割といった大日本帝国の論理や、
移住者の郷愁の滲む都道府県名の字名など、
日本人によって遠慮なく振りかざされた痕が露骨に残っていて、
日本人の気質が気恥ずかしいほどよくわかる気がした。

著者の文章は直截で澱みなく、読み物としてもスラスラ読めて面白い。


山口創『子育てに効くマインドフルネス 親が変わり、子どもも変わる』

光文社新書ということで手に取って読んだが、
スピリチュアル系の香りが立つ。
目の前で起きている問題を客観視し整理するには役立つかもしれないが、
どうコミットするのかは考慮の外に置いている。
気の持ちようとしての参考にはなるかもしれなかった。


高橋惠子『子育ての知恵 幼児のための心理学』

岩波新書。
タイトルのとおり、子育ての折々で参照したいような一冊だった。

ボウルビィの「愛着」概念と社会での誤った受容は、勉強になった。
幼児の人間関係の多重性については、
やはり子どもも人間であり、社会的存在なのだ、と感心し、
親権を振るうべき対象ではなく個として尊重するべき、という
当たり前のことを改めて実感した。
「あなたの子どもは、あなたの子どもではありません」という
デンマークの標語が紹介されていて、
その人権意識はまったく日本に欠けるものだ。

「母親が一番」といった根強い母親神話や、
「三つ子の魂百まで」という俗説まで、
科学的な知見を以て冷静に分析し、断じている。
これこそ社会や政治への科学の面目躍如、と読んでいて痛快だった。


中村隆英『日本の経済統制 戦時・戦後の経験と教訓』

『古川ロッパ昭和日記』を読み進める上で、
戦時中の経済体制について知りたくなり、読んだ。

金本位体制での国際収支の均衡という制約のなかで、
軍備拡大のために経済統制をする、というポスト大正期のイデオロギーが、
いかにして机上で練られたあげく陸海軍省の権威とともに実現され、
民需を圧迫して破滅していったか。
裏から、石原莞爾の「世界最終戦論」と、米国不参戦と、
根拠のない前提が雰囲気的に蔓延していた、という思考停止状況も手伝う。
経済統制は画一的で徹底的であり、その描写は笑ってしまうほどだ。
先祖の身に起きた災難を笑うのは、哀しむべきことだが。

米の配給制度が初めて貧農層にも米食を行き渡らせたことは知らなかった。
また、戦前の組合運動が産業報国会という労使協同の談合組織として
事業所ごとに組織され、それが戦後に労働組合となったとも、知らなかった。
戦後の重工業化や食管法など、戦時中の名残の制度は知っていたが、
管理通貨制度や指定金融機関制度、下請け制度、
年功序列や終身雇傭もそうとなれば、
経済という有機体が戦争を経ようともいかに連続した営みであるか、
改めて驚かされる。

話はそれるが、読んでいて感じたことは、
官僚というのは優秀な集団だとしても所詮は権力の両腕でしかなくて、
善行も愚行もとにかく精密に遂行する連中でしかない、ということ。
もちろん、官僚機構は行政を執り行ういわば歯車であって、
議論や内部監査といった思考をする場ではないので、当然といえば当然だが。

ちくま学芸文庫。
もとは、石油二法へのアクチュアルな問いとして、
1974年に日経新書として刊行されたもの。
巻末には資料として、
国家総動員法の条文や、経済新体制確立要綱などが付録されている。
およそ半世紀前、高度経済成長末期の日本人は働くサルのイメージだが、
新書がこれほどの知識の厚みのある書物を以て世に問うとは。