・ジョナサン・スウィフト『ハックルベリー・フィンの冒険』
冒険譚としてだけでも充分に面白いが、
あちこちに無邪気さを装った社会批判がちりばめられている。
あれ? ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが登場してるんですけど……?
・宮崎学『ヤクザと日本』
やくざの近代史。自分の日本史観に風穴ぐらいは開けたかもしれない。
あまりにさらっと読めてしまい、「新書」ってこんなものだったか、と訝しんだ。
・柄谷行人『終焉をめぐって』
歴史と文学の二つについての評論集。
村上春樹の心地よい違和感について解き明かされていて、痛快だった。
村上春樹ファンよりむしろ、シンパ的アンチ(?)に読んでもらいたい。
柄谷行人の切れのあるものの見方には、常に発見がある。
・大江健三郎『芽むしり 仔撃ち』
閉じ込め合い、空気を読み合ってと、生死を賭けた気の毒なサバイバルを行なうも、
個人の生死か、それとも、集団の生死か? それは子供も大人も同じこと。
どこまで逃げてもそこは、幾重に覆い被さった蟻地獄の中。
それを独りで行けというのは、死刑宣告なんだろうか?
・大江健三郎『奇妙な仕事』
実存主義の色濃い、大江のデビュー作。
初期の大江って読むと疲れるけど、これなんかさらっとしててそのエッセンスでギトギトで、
……なんだろう、自分はどの登場人物? 全部?
16.7.08
無意識の単語
電気のことで、電話で頼んで15時までに来てもらえることになり、
しかし待っていても舞っていても来ずに16時になり、再度電話したら、
立ち会いは必要なかったのですでに用は済んでいた。
ドアをノックされるものだとばかり先入観で思っていたので、
「自分が知らなかったばかりに……」ということを云おうとして、
「自分の……」とまで云ってしまい、さて、どう言葉を繋ぐか?
咄嗟に口から出てきた言葉は「不明」だった。
「自分の不明のばっかりに電話で煩わせてしまい、申しわけありません」。
しかし、後で辞書を引いたところ、「不明」には「無知、愚か」という意味もあり、
先の用例は間違っていなかった、ということがわかった。
自分でも意識しないままに「不明」という言葉の別の意味を知り、
使っていた、ということになる。
前も、人と話していて、自分では意識していなかったがふと口にした単語を、
それは意味が違うのではないかと指摘され、しかし間違っていなかったことがある。
それにしてもどこから入ってきたのか、見当もつかない。
誤用されやすかったり、変わっていたりする意味、用法などなら、
日頃から気をつけているはずなのに、
これはまた言葉の、そして言葉を巡る思考・脳の不思議を感じた瞬間だった。
9.7.08
政治は宗教、哥はすさび
カール・シュミットの『政治神学』を読了したのは、確か一昨日。
専攻研究への考察と批判を深く絡めながら議論を進めるという独自の書き方に慣れるまで
少々の時間がかかったが、80ページほどもなく、あっという間に読めた。
内容として有名なのは、例外状態の決定者を主権者とする定義と、
政治は世俗化された神学、という考え方だが、
どのようにその二論が結びつくのかが、読んでみて理解できた。
上田秋成の『胆大小心録』を読んでいる。
やはり学者だが、その濫觴の頃の、というか、あるいは、あるべき姿、というか、
機知が効いていて大変に面白い。
もっとも、中央公論社の全集の収録のものだからか知らないが、
注釈は最低限、というか、古典に明るくない自分にとってはあまりに不足、
そして、濁点や半濁点は一切ない。
たまに挟まれる漢文には、訓読点はあっても送り仮名はない。
それでは、一語ずつ頭の中で溶かして理解して読んでゆかねばならず、
字面を追って少しでも走り出すと、もう意味が取れなくなる。
そういえば、似たような話として思い出すのは、
かつて録音技術が良くなかった頃は、悪い音でも熱心に聴き入っていたが、
現在の良質な録音では、却って聴き入るということをしなくなった、という話。
人は技術によって豊かにされているのではなく、吸い取られてゆくだけなのだろうか。
ここでまた思い出すのは、H.D.ソローの随筆『山の生活』にあった箴言。
「我々がレールの上を走っているのではなく、レールが我々の上を走っているのだ」
1.7.08
動きまくる
Suica(JR東日本)ではなくICOCA(JR西日本)を買おうと思っていたが、
より複雑にして広大な関東を一刀両断できるSuicaを択んだ。
そもそも、Suicaでは関西私鉄群に乗れず、ICOCAでは関東私鉄群で使えない。
関西に生活基盤のある自分にとって、
PiTaPa(西日本私鉄)と相互利用できるICOCAのほうがメリットがあると考えて、
ICOCAにしようと思っていたのだが、
関西私鉄共通プリペイドカードの「スルッとKANSAI」にあたるものが
関東にはない、ということを知ってから、Suicaの入手へと至った。
共通のプリペイドカードがないなんて、
Suica導入前は関東の人々は、乗り換えの度に
券売機で路線図とにらめっこしていたのだろうか。
俄には信じがたい。
そんなわけで、Suicaは関東全域+JR+仙台空港鉄道で利用、
大阪、関西の私鉄ではスルッとKANSAI、という
綺麗な棲み分けを自分の中で確立できた。
高校生の頃の電車通学から遠く離れて、
移動手段の主体が自転車だった時期があまりに長く続いたせいか、
時間に余裕を持たせるときの一単位が電車移動にとっては余裕ですらない。
遍在する細切れの空き時間をうまく拾えば読書が進む、という
ささやかなメリットもあるけれども。
あと、自転車や自動車は、自分で機械に働きかけて機械が動く、二人三脚的だが、
電車やバスや飛行機は、ダイヤがまずあって、
それにのこのこ出かけていって飛び乗ったあとは、運ばれてゆく荷物に化す。
移動手段として一括りにされても、自転車や自動車と、バスや電車は、
含み持つ意味が決定的に違う、ということを思った。
実は動き回っている。
大阪を出て東京に一泊してから仙台に行き二泊後に再び東京、
しかもこの移動はすべて一列四シートの長距離バスなので、
肩は凝るわ寝不足になるわで、良いことと云ったら安いということぐらいしかない。
今週末の帰仙は甘えて新幹線で帰りたいところだが、そうもいかない。
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