1.6.09

カール・シュミット『中立化と脱政治化の時代』、吉田満『戦艦大和ノ最期』、若合春侑『腦病院へまゐります。』

・カール・シュミット『中立化と脱政治化の時代』

政治において決定とはいかなるものか。
その決定主体のヨーロッパ史的な推移を、シュミットは、
神学→形而上学→科学・実証 という流れに見出そうとする。
科学・実証が客観性として機能している現在は、
神学も形而上学も本質的ではもはやなく、一概念である。
そして本論文の後半では、科学的態度というものが
実は決定プロセスを有さない(=蓋然性への議論あるのみ)ということが明かされる。
それが、実存的な不安から逃れられない無数の大衆を産んだのだ、と。

この問題を「近代の超克」として不問に附したフランシス・フクヤマのような
アメリカ民主主義崇拝の態度は、いかに乱暴なものか。
やはりカントのような市民像が求められているのか、
それともこのまま大衆は「歴史の終わり」を信じ込まされて
『1984』(『1Q84』?)に邁進するのか?


・吉田満『戦艦大和ノ最期』

官僚主義に陥って自滅した旧日本軍の象徴である軍艦大和の記録文学として名高い。
少尉として実際に乗り組んだ著者が綴る、
みすみす死ぬとわかっていて出撃せざるを得ない海兵たちの苦悩。
一億玉砕に猛進するという精神論に陥って国民を巻き込んだ軍部暴走の先端として
譬喩ではなく実際に玉砕する、という無益で無謀な作戦は
「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本──万里ノ長城、ピラミッド、大和」と
出撃前の乗組員たちに云わしめ、
著者本人にも「海戦史ニ残ルベキ無謀愚劣ノ作戦」と結論づけさせた。

精神論への傾斜から日本が「負ケテ目ザメル」ことで
再生を望んだ臼淵大尉の意図とは逆に、
ここ最近、特攻やらを美化する阿呆な浪漫主義が復活し始めていることに
危惧を覚えずにはいられない。


・若合春侑『腦病院へまゐります。』

圧倒的で一気に読ませる、内容の強烈さが残る作品。
谷崎を敬愛する登場人物なれども、谷崎のような立場の逆転ではない。
こじれた関係のだらだらという意味ではコンスタン『アドルフ』の亜種かな。

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