15.4.11

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』

Antonio Tabucchi « Notturno Indiano ».
『イタリア広場』の読後、ぜひ他の作品を、と手に取った。
インドのホテル、夜と眠りを録したエッセイのような文体。
主人公が知人を追ってインドに来ていると、読み進めてゆくと知るが、
その手がかりも薄いままページは終わりにさしかかってから、
物語は、線先が平面から浮き上がって思わぬ方向にかしげ、終わる。

『イタリア広場』と同様、流れは省略が効いて、
その間を埋める想像力が抒情を生む。
ここに物語性が一本加えられ、もう云うことはない。

10.4.11

反原発デモに行ってみた

四月十日の十三時から、芝公園から大手町駅までを反原発デモがあるとtwitterで知った( http://410nonuke.tumblr.com/ )。同じ都内の高円寺ほか、札幌、鎌倉、名古屋、富山、京都、広島、沖縄、そして海外各地で同様のデモ。同日ではないか集会もあるという。

原発反対と考えていながら何もしないのでは口先だけの御仁になるし、権力に「声なき多数は支持」と都合よく解釈されかねない。それは厭なので(それだけの理由だが)、思いつきの飛び込み参加をした。

せっかくの好天、花見もかねた。増上寺の桜は美しかった。木々の緑と桜花を鐘ごしに観ると、視界は狭くなるが、人の混雑も隠れて良かった。

日本能率協会と正則高校の脇にある芝公園の一角が集合場所との情報だったので、そちらへ向かう。地下鉄に乗り込んだときから、旗竿を持った人や原子力マークのマスクをした人がいて、そのしっぽに着いていけばよかった。集合場所は人だかりと、たっぷりの警官がいた。

労組や市民団体の幟があったほか、関心の高そうなおばさん連中、女子大生なんかは、自分と同様にネットで見て、というおもむきだった。比率としては半分ずつぐらいだったのではないか。自分も何も考えていなかったので、約五キロの行程を歩くのに革靴だったし、もちろん手ぶらだった。「原発をとめよう」というシンプルなA3の紙を配っていたので、それを持って歩いた。自分は列の後半にいたようだった。スピーカーごしのかけ声はあったりなかったりで、巧い下手があった。丁寧に声出しをしている人もそうでない人もいた。素人の寄り合いのエリアにいたのだろう。だから、変に気疲れせずに済んだ。集まった人数は主催団体「フクロウの会」発表で2,500人。

晩八時前、デモに行ったことも忘れてぼんやりテレビを観ていた。選挙速報が始まると、そういえばとにわかに気が急いた。当確の一発目で石原が出たときは、日曜の夜のくつろぎをぶちこわそうとする下劣で悪趣味な茶番が始まったのかと思った。福井県知選も原発推進派の現職が早々に当確。何も変わらない結果に、思考停止した日本はもう変わらないと失望した。

スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』、魯迅「阿Q正伝」「狂人日記」「孔乙己」

・スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』

以前に読んだ『僕はマゼランと旅した』と同様、シカゴをめぐる短篇連作。
ただ前者のほうがストーリー性はあるし、記憶に残っている。
でも、シカゴのあちこちを連写した小説、とでもいうような短篇らしさ、詩的さがあった。
構成もそうで、短篇に掌篇が互いに挟み込まれるようになっている。
ある都市の風景というのは、土地の気質あってこそだ。
高級住宅地から工業地帯まで、断片の寄せ集めであっても、
同じ街だから交流があり、それが織り込まれて様々な様相を見せれば、
一般化なんてされていない個別エピソードの連作が、
一つの街の気質として、ずっしりと読後感が残る。
「俺、美に心酔しちゃうなあ!」とわめいてさんざんいじられるディージョも(「荒廃地域」)、
上階の住人のピアノに聞き惚れる主人公も(「冬のショパン」)、
そういった意味で、連写が偶然にスナップに残した一景、という印象。


・魯迅「阿Q正伝」

中学三年生のころ、よくわからないながら読んで、
登場人物の阿呆っぽさと、描かれる時代の不穏な空気だけが印象に残った。
これではいけないと、十年弱ぶりに読み返した。
どれだけバカにされても自尊心高々にご機嫌な阿Qが、
列強に分断される末期の清朝の寓意だと、
これは長池での丸川哲史先生の謂いだが、
書き出しから長く続く阿Qについての描写は、
面白おかしく書いている裏で、かなり丁寧にそれを示している。
阿Qが革命で処刑された後は、何にも変わらない大衆の愚かな無関心で擱筆。
この魯迅の問題意識はそのまま、閉塞して窒息しかかってなお無言の日本人に対しても
繋がらざるを得ないのではないか。
孫文後に軍閥の割拠した中国は、財閥の割拠する現代日本と相似していないか。
こういうふうに、常に現代と引き寄せて考えることのできる、
内容ではなく型(タイプ)を提供できる小説って、好きだ。


・魯迅「狂人日記」

中国最初の近代小説とされる作品。
被害妄想から、更には自分が喰われるのではないかと怯える主人公の手記の形式。
この民衆批判も、可能性としてはタイプ提供の小説だ。
だが、魯迅が直接批判しているのは、中国の民衆だ。
身の回りのみ見て保身にひた走り、市民(国民)にならない民衆、
と云ってしまえば型にはめ過ぎかもしれないけれど、
そうした者の陥りがちな疑心暗鬼を先鋭化されて提示したような作品だと思った。


・魯迅「孔乙己」

長衣を来た読書人でありながら科挙制度の秀才の試験にも受かっていない孔乙己。
そのあだ名自体が、習字の練習のための決まり文句の一部分というから寓意的。
科挙制度を俎上に載せて批判した作品だと解されるらしい。
けれども自分は、民衆の描き方、魯迅の民衆批判が、印象的だった。
阿Qと同じく孔乙己も変わり者として、ちょっと目立ってはすぐに消え、忘れ去られる。
そんな、暗くて救い難い世界に巣食っている全近代の無教育な連中、という感じがする。