10.4.11

スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』、魯迅「阿Q正伝」「狂人日記」「孔乙己」

・スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』

以前に読んだ『僕はマゼランと旅した』と同様、シカゴをめぐる短篇連作。
ただ前者のほうがストーリー性はあるし、記憶に残っている。
でも、シカゴのあちこちを連写した小説、とでもいうような短篇らしさ、詩的さがあった。
構成もそうで、短篇に掌篇が互いに挟み込まれるようになっている。
ある都市の風景というのは、土地の気質あってこそだ。
高級住宅地から工業地帯まで、断片の寄せ集めであっても、
同じ街だから交流があり、それが織り込まれて様々な様相を見せれば、
一般化なんてされていない個別エピソードの連作が、
一つの街の気質として、ずっしりと読後感が残る。
「俺、美に心酔しちゃうなあ!」とわめいてさんざんいじられるディージョも(「荒廃地域」)、
上階の住人のピアノに聞き惚れる主人公も(「冬のショパン」)、
そういった意味で、連写が偶然にスナップに残した一景、という印象。


・魯迅「阿Q正伝」

中学三年生のころ、よくわからないながら読んで、
登場人物の阿呆っぽさと、描かれる時代の不穏な空気だけが印象に残った。
これではいけないと、十年弱ぶりに読み返した。
どれだけバカにされても自尊心高々にご機嫌な阿Qが、
列強に分断される末期の清朝の寓意だと、
これは長池での丸川哲史先生の謂いだが、
書き出しから長く続く阿Qについての描写は、
面白おかしく書いている裏で、かなり丁寧にそれを示している。
阿Qが革命で処刑された後は、何にも変わらない大衆の愚かな無関心で擱筆。
この魯迅の問題意識はそのまま、閉塞して窒息しかかってなお無言の日本人に対しても
繋がらざるを得ないのではないか。
孫文後に軍閥の割拠した中国は、財閥の割拠する現代日本と相似していないか。
こういうふうに、常に現代と引き寄せて考えることのできる、
内容ではなく型(タイプ)を提供できる小説って、好きだ。


・魯迅「狂人日記」

中国最初の近代小説とされる作品。
被害妄想から、更には自分が喰われるのではないかと怯える主人公の手記の形式。
この民衆批判も、可能性としてはタイプ提供の小説だ。
だが、魯迅が直接批判しているのは、中国の民衆だ。
身の回りのみ見て保身にひた走り、市民(国民)にならない民衆、
と云ってしまえば型にはめ過ぎかもしれないけれど、
そうした者の陥りがちな疑心暗鬼を先鋭化されて提示したような作品だと思った。


・魯迅「孔乙己」

長衣を来た読書人でありながら科挙制度の秀才の試験にも受かっていない孔乙己。
そのあだ名自体が、習字の練習のための決まり文句の一部分というから寓意的。
科挙制度を俎上に載せて批判した作品だと解されるらしい。
けれども自分は、民衆の描き方、魯迅の民衆批判が、印象的だった。
阿Qと同じく孔乙己も変わり者として、ちょっと目立ってはすぐに消え、忘れ去られる。
そんな、暗くて救い難い世界に巣食っている全近代の無教育な連中、という感じがする。

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