待賢門院璋子との失恋を経て出家、
その後は熊野や高野山、伊勢二見など庵を点々として修行、
奥州藤原氏への勧進などを経て、春の望月のころに死んだ西行の、
朴訥とした、あるいは新古今歌人らしい技巧光る歌の数々。
百首には塚本邦雄のいう「歌屑」も含まれているが、
乱世下の生き様を照らせば透ける西行らしさを
そのまま愛でる態度を厭う節もわかる。
逆に、それだけ西行の歌には荒っぽさとむらがあるし、
秀歌ははっとするような鋭利さに輝く。
気に入った歌としては、「鴫立つ澤の秋の夕暮れ」を筆頭に有名どころ、
ほととぎす深き峯より出でにけり外山の裾にこゑの落ちくる
きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか聲の遠ざかりゆく
津の國の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり
古畑のそばの立つ木にゐる鳩の友呼ぶ聲のすごき夕暮
はすさまじい。古畑、そのそばの一本木、独りとまった鳩、と
寂しい視界が狭まったすえに、夕暮れに映える凄まじい鳴き声が響く。
情景そのものも色合いのコントラストがあるし、何より聴覚に訴える。
月冱ゆる明石の瀬戸に風吹けば氷の上にたたむ白波
は、夜ながらも「明し」(明石の掛詞)月のために、
氷も、その上に寄せる白波も、冴え冴えと寒い。そんな夜の海岸が思い浮かぶ。
他にも、
おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風
見しままに姿も影も変わらねば月ぞ都の形見なりける
吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ
ほととぎす聞かで明けぬと告げがほに待たれぬ鶏の音ぞきこゆなる
要は、どの歌も自分の心象風景なのだ。
だからこそ、私小説に似た執念深い吐露が、時には技巧的に、時には朴訥と出る。
その情景が切実さとリアルさをもつとき、歌が冴え渡る。
玉石混淆というのはそういうことなのだろう。
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