1.7.11

ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』

筆生のバートルビーが"I would prefer not to."という有名な科白とともに
仕事をしなくなる、という、メルヴィルの短篇の主題の不思議さに対する評論。
こういったタイプ型のカフカ的世界の小説は、
○○の寓意とする乱暴な読解はなんでもできる。タイプ型で何でも入るから。
そしてその際限のなさに、そういった読解の無意味さを見出だす。

アガンベンはバートルビーの主題をそのまま丁寧に解きほぐす。
書かない者が、書くことを職業とする筆生であり続けるという、
自己矛盾的な状態を、アリストテレスの潜勢力という考えから拡げてゆく。
ライプニッツのいう様相の諸形象は、次の通りだが、


 可能的なものとは存在することができる何かである。
 不可能なものとは存在することができない何かである。
 必然的なものとは存在しないことができない何かである。
 偶然的なものとは存在しないことができる何かである。


バートルビーは第四の形象でありながら、「むしろ」という決まり文句によって
偶然を必然に変えながら同時に筆生としての存在を抛棄する。
前期ウィトゲンシュタイン的にいえば、
言語による可能世界と現実世界の合間を生きるような、そんなありさまだ。
論理学への挑戦とでもいうべき「バートルビー」の主題を、丁寧に分析している。

文法的に非文とも思えるような決まり文句の分析も面白い。
どこを向いているかもわからないtoが、他の登場人物や読書を混乱させる。
非文が文学の可能性を拓く。近代以降、詩はそういった試みだ。
ランポーの«Je est un autre.»に代表されるように。
先月、オーギュスタン・ベルクも立教大学での講演会で、同じことを言っていた。
主語の曖昧さ、揺れ動くような主体という文法が、
ヨーロッパ中心主義を相対化している、と。

0 件のコメント: