9.6.12
森敦『意味の変容・マンダラ紀行』、六車由実『神、人を喰う』、上田秋成『雨月物語』
・森敦「意味の変容」
『群像』連載後、柄谷行人が筆者に掛け合って単行本化が実現したとのこと。
境界をめぐる概念の試考、といってよい。
著者が覚書で明かしているように、位相空間論の近傍概念がまずある。
円を描き、内部に境界を含めず外部に境界を含めるとすると、
内部は近傍として境界を認識せず、境界によって密閉されていないため、
全体であるように認識される、とする。
続いて、凸レンズを経た光の屈折が実像を結ぶ事象を、内外の風穴と見る。
「外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという」、
そして「われわれのリアリズムは倍率一倍と称する倍率一・二五倍である」
と帰結すれば、もうここには物理学も論理学もなくて文学理論の話をしている。
話は無限級数のような謂いへ及ぶ。
数ヶ月先の返済とする約束手形、数年、……、死ぬときの返済とする約束手形。
ここに、歴史から哲学へと手形の意味が変容する、という……!
この文学論(?)は、物語の虚実を超越している。
文学性はそこにはないのだ、と。
このダイナミックな考え方に、無二の魅力を感じた。
・森敦「マンダラ紀行」
テレビの紀行番組の司会として、出羽三山、東大寺、四国八十八ヶ所を巡る。
密教の曼荼羅から万物を呑み込むようにして、
華厳経の一即一切、一切即一の境地に至る。
読んで思ったのは、意味の遍在だった。
大日如来を中心とし周囲に異教をも取り込んで
外部を徹底的に内面化する曼荼羅のように、
筆者の密教的思考は外部がなく、意味が充満している。
数学と同じくらいに精緻な理論体系をなしている。
・六車由実『神、人を喰う 人身御供の民俗学』
第三項排除による共同体の安定を目指す祭りの行為が、
かつては人身御供だったとする伝承を生んだ、とする
遡行的な解釈が印象的だった。
伝承(=語り)という意味でも、
「もう人身御供は行われていない」という救いがあってこそ
はじめて公に語り継がれるものになるのだろう。
・上田秋成『雨月物語』
面白いと思ったのは、
全話とも国内の具体的な場所を舞台にしているだけでなく、
登場人物がしばしば広域を経巡る、ということだ。
「浅茅が宿」で主人公は葛飾郡真間に妻を残して京へ上り、
木曽で盗賊に遭い、近江に滞在した後に帰る。
「夢応の鯉魚」は近江国三井寺の僧が魚になって、
竹生島や瀬田の唐橋など、琵琶湖の名所を読者にいざなう。
江戸時代、遊山が流行ったというし、地図ガイドも種々発行された。
そういう意味で、地名が一般人にとっても、
具体性を持って土地色や距離感のイメージを
伴うものになっていたのかもしれない。
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