15.6.12

Marguerite Duras « Hiroshima Mon Amour »

デュラスのフランス語原文は端正でシンプルだと思う。
訳文では説明が盛り込まれ、修飾関係がぎくしゃくして、膨脹する。
どうしてもなんとなく読みにくくなる。それを除して読みたかった。

広島とヌヴェール(Nevers, Nièvre)の交錯が
迫る出発の時間の焦りとともに昂る。
駅でのアナウンス「広島、広島」がヌヴェールの景色で流される一景が、
読んでいて、その極みにあるように思った。
死んだ敵兵の恋人を重ねあわせ、それが目の前の日本人に生きてあり、
しかし自分はヌヴェールを背負って生きてゆく、訣別できない人生。
ありふれた、しかし身に刺さった過去が、女の長い独白に淡々と昂る。

文になりきれていない短い科白が、その反復が、原文の粋だと思う。
 Je vois ma vie. Ta mort.
 Ma vie qui continue. Ta mort qui continue. (p.78)
あるいは、
 LUI ─ J'aurais préféré que tu sois morte à Nevers.
 ELLE ─ Moi aussi. Mais je ne suis pas morte à Nevers. (p.96)

広島とヌヴェール、男と女、« histoire de quatre sous »と歴史的な事件、
現在と過去、…、の対比の搦みあい、というわけではない。
女にとって広島は地獄から蘇ったありふれた都市で、
ヌヴェールは辛い故郷として、しばしば廃墟の絵を伴う。
では、広島とは何か? « Hi-ro-shi-ma. C'est ton nom.  » なのだ、と。

広島とヌヴェールの邂逅。
原爆という非人道の極みが、ここで、
敵兵と通じた女という、戦時中のありふれた事件と通いあう。
冒頭の、「知っている」「知らない」「見た」「見ない」の
ヒロシマをめぐるキャッチボールのような会話に、
ここでは風穴が開いている。

この交錯が、次第に融けあって恍惚を伴う感触が、
ヌーヴェルヴァーグの映画、ヌーヴォーロマンの文学、らしいように思う。
それを可能にする、記号かパズルの組み合わせのような文体。

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