13.7.12

大城立裕『カクテル・パーティー』、川上弘美『神様 2011』

大城立裕『カクテル・パーティー』

沖縄文学はまず、目取真俊「水滴」を憶えている。又吉栄喜はどうだったか。
「カクテル・パーティー」も高一のときに読んだはずが、記憶にない。

「亀甲墓」は、沖縄上陸直後に亀甲墓に逃げた家族の物語で、
戦争に脅かされながらも家族関係が丹念になぞられていて、
小説というより短い戯曲のような群像劇だった。
「棒兵隊」は、"同胞"の日本兵にスパイ扱いされぬよう気に入られるよう、
危険を冒してわき水を汲む役を買って出て、
防空壕を、銃砲とびかう陸上を、死と隣り合わせに点々とする話。
草の繁る中を朦朧とさまよう景色が、読後に焼きつく。

表題作は、米軍統治下の沖縄が舞台。
アメリカ人、中国人、本土人、そして沖縄人の主人公の、
アメリカ人の接収地の家族住宅でのカクテル・パーティー。
その後、主人公は娘が若い米兵の被害に遭ったと知り、
統治体制で圧倒的に不利とわかっているにもかかわらず告訴を決心する。

沖縄の社会運動が、小説の火を通さず盛りつけられたままの読みごたえがある。
戦後の沖縄とは、何か? 真正面から向かい、深くえぐる。
アメリカ、中国、本土、琉球=沖縄のそれぞれの立場が、
戦争の前後の立場をちらつかせながら、
虚妄の親善と本気の議論を戦わせる。

「このさいおたがいに絶対的に不寛容になることが、
 最も必要ではないでしょうか」と、主人公は訴える。
沖縄の寛容さが、差別的統治を明治政府とアメリカ軍に許し、
本土復帰後の日本政府に基地問題に真剣に取り組ませなかった、
この怒りが、一見すると異形のこの叫びに、滲み出ている。
臭いものに蓋をして問題を先送りしつつ、
しかしお互いにちらつかせて譲歩を出し抜こうとしながらも、
表面は笑顔の仮面で武装するカクテル・パーティーの場を、
未来のために槍玉に挙げて訴えかける。


 川上弘美『神様 2011』

著者のデビュー作「神様」、そしてその改作である表題作、の二篇を収める。
改作といっても、文言の大同小異があるだけだ。
むしろ、その相違こそが、著者の訴えるところ。

「神様 2011」は、2011年3月11日に起きた「あのこと」以降に、
「神様」のときと同じく、くまと散歩にいく話だ。
書き出しはまったく同じだし、結末も変わらない。
ただ、原発事故を経ているから、町に残る人は少ないし、
くまが川でしとめた魚は食べることができない。
帰宅後は一日の被曝線量を測る。
原発や放射能汚染の影が、小説舞台に影を落とすことはない。
ただ、河川敷に草が生えて草いきれがするような当たり前さで、
原発事故が過去にあって、外出が被曝をもたらすだけなのだ

「あのこと」から一年と四ヶ月が経ったいま、
過ぎ去った時分として、気持にけりをつけつつある内心に、
このわずかな相違の改作に揶揄されて、ようやく気づく。

8.7.12

ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』、内田百閒『冥途』、開高健『戦場の博物誌』

ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』

主人公の名前がムッシューで、29歳にして大企業の課長。
フランス人らしいが押しが弱く、
厄介に巻き込まれる反動でおいしいとこ取りをしているような印象。
振り回されながらも飄々としていて、その内心を表すように、
「いろんな人が、いるもんです」「万事は、場合によりけりだ」と、
挿入句のように繰り返される。
それでいて大きな事件が起きることのないまま、
ムッシューの人生は順風満帆に流れてゆく。終わり。
──言ってしまえば、人生を莫迦にしたような小説だが、
テンポが良くて、ところどころがクスリと面白い。

2006年11月16日にトゥーサンが講演会で駒場に来たとき、
自分は仙台から新幹線に乗って聴きにいった。
ベケットについて熱く語っていたのをぼんやりと憶えている。


 内田百閒『冥途』

福武文庫版。
第六高等学校の交友誌初出の「烏」も併録。
この初期作品から、あの怪談調・「夢十夜」調は変わっておらず、
むしろ、ますます研ぎ澄まされていっていることがわかる。

ある種の永遠性が、どうしてこのように具体的に描き出されるのか。
それは、幼少期のきらきらした記憶のようでもあり、
じわじわと背筋に上ってくる怪談のようでもあり、
不思議と鮮明に憶えていて消えない夢のようでもある。
細部を徹底して欠いたシンボルが主人公と渉りあうからか、
相手の表情と内心がまるでのっぺらぼうで見えないまま話が進むからか。


 開高健『戦場の博物誌 開高健短篇集』

講談社文芸文庫版。副題には単に短篇集とあるが、
表題どおり、筆者がベトナム戦争に取材した内容が主。

読み終えてから頭に残ったイメージをかき集めると、
戦争の印象が実は大きく変わった、と感じずにはいられなかった。
戦争の現場として思い浮かべるのは、戦場だ。
だが、その後背で戦時景気に沸く街や、
村ともゲリラともつかない生活が戦地すぐそばで悠々と営まれているとは、
戦場の二文字からは決して連想することはできない。
どちら側の味方かころころ鞍替えし、黙して語らない「たそがれ村」の存在、
前線の父親のすぐそばに洗面器ひとつで来て暮らす家族の姿、
地雷で吹っ飛ぶ路線バス、盛り場の酒場の爆弾テロ、
米兵に笑顔でたかりつつときにゲリラとなって攻撃する子供たちの描写は、
もはや戦場の交戦が戦争ではない、と気づかせる。
ベトナムに戦争は遍在していた、
アメリカ式に一刀両断するシンプルな思考では、
まるで理解できない戦争が、ベトナムで展開されていたのだ、と。

だから枯葉剤が撒かれたし、
「民間人」(純粋な民間人はいなかった?)への虐殺も、
凄惨で悲劇的な報道写真の数々もなされたのだ、と初めて気づいた。

表題作「戦場の博物誌」では、パレスチナの国境沿いの農村も描かれる。
それも、生活が戦争と隣り合わせで営まれるという、非日常的な日常の描写だ。

3.7.12

伊坂幸太郎『仙台ぐらし』、小川国夫『試みの岸』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』


伊坂幸太郎『仙台ぐらし』

『仙台学』に連載したエッセイをまとめたものとのこと。
仙台に大学生時代を暮らし、仙台に郷愁を抱く一人にとって、
このエッセイ集に、あまり仙台らしさを感じ取ることはできなかった。
「タクシーが多すぎる」ぐらいのものだった。
それでも、文系食堂の脇の喫茶店のミルクコーラは、
学生時代に取りこぼした一エピソードを補完してくれたし、
喫茶店(のチェーン)によく行った身としては、その話題も懐かしかった。
エッセイにそうはかかれていないのだけれど、
愛宕上杉通のちっぽけなドトールを思わず重ねあわせていた。
もしかすると、仙台の良さはそういうとりとめのなさなのかもしれない。

この本の一番の良さは、後ろ1/3ほどのところで東日本大震災を挟んでいることだ。
日常が鋭く切断されて闇が広がる行く末を、じわじわと修復してゆく静かな生命力が、
伊坂幸太郎の特に特徴も抑揚もない文体から、滲んで溢れているように感じた。


小川国夫『試みの岸』

馬をめぐる短篇三作、とでもいおうか。
小川国夫の譬喩の輝きは、近代の日本文学の屈指のものだと思うが、
表題作の冒頭、馬への眼差しはその真骨頂だ。
「十吉が竜の鬚の実を摘んで、胸へぶつけると、
 筋肉を顫わせて躍ねのけた」というようなリアリズムがあれば、
「それは余一が知らない笑い方で、快いしつっこさがあった。
 彼女がわらっているのではなくて、彼女の中でだれかが笑っているようでさえあった」
という透かせるような喩えもある。小川国夫の小説を読む愉しみの極みだ。

物語は静岡の大井川の流域、おそらくは藤枝や焼津のあたりだ。
地名として骨洲、速谷、静南などが出てくるが、どれがどこを示すかはわからなかった。
静岡は高地のように温暖で牧歌的に思われた。
『アポロンの島』で描かれた風土が、より日本の土着の荒々しさは帯びたものの、
静岡に根ざして描かれていると感じた。


コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

シーンが行空けで短く区切られていて、映画のようだった。
非現実的な前提を措定してから現実性を追う、これはリアリズム小説なんだと思う。

庭のシェルターに備蓄庫を見つけ、そこで何日か暮らす。
最も幸せでありかつ、次の瞬間に何が起きるか分からないもっとも不穏なシーンだった。
幸せが、それを失わせる暴力を予感させ、幸せにあり余る恐れを生む。
囚人のジレンマで非協力が確立されてしまった世界は、こうも怯えるものなのか、と考えた。
人と人とを結びつけるという意味で、経済の功利も、つれづれに。