大城立裕『カクテル・パーティー』
沖縄文学はまず、目取真俊「水滴」を憶えている。又吉栄喜はどうだったか。
「カクテル・パーティー」も高一のときに読んだはずが、記憶にない。
「亀甲墓」は、沖縄上陸直後に亀甲墓に逃げた家族の物語で、
戦争に脅かされながらも家族関係が丹念になぞられていて、
小説というより短い戯曲のような群像劇だった。
「棒兵隊」は、"同胞"の日本兵にスパイ扱いされぬよう気に入られるよう、
危険を冒してわき水を汲む役を買って出て、
防空壕を、銃砲とびかう陸上を、死と隣り合わせに点々とする話。
草の繁る中を朦朧とさまよう景色が、読後に焼きつく。
表題作は、米軍統治下の沖縄が舞台。
アメリカ人、中国人、本土人、そして沖縄人の主人公の、
アメリカ人の接収地の家族住宅でのカクテル・パーティー。
その後、主人公は娘が若い米兵の被害に遭ったと知り、
統治体制で圧倒的に不利とわかっているにもかかわらず告訴を決心する。
沖縄の社会運動が、小説の火を通さず盛りつけられたままの読みごたえがある。
戦後の沖縄とは、何か? 真正面から向かい、深くえぐる。
アメリカ、中国、本土、琉球=沖縄のそれぞれの立場が、
戦争の前後の立場をちらつかせながら、
虚妄の親善と本気の議論を戦わせる。
「このさいおたがいに絶対的に不寛容になることが、
最も必要ではないでしょうか」と、主人公は訴える。
沖縄の寛容さが、差別的統治を明治政府とアメリカ軍に許し、
本土復帰後の日本政府に基地問題に真剣に取り組ませなかった、
この怒りが、一見すると異形のこの叫びに、滲み出ている。
臭いものに蓋をして問題を先送りしつつ、
しかしお互いにちらつかせて譲歩を出し抜こうとしながらも、
表面は笑顔の仮面で武装するカクテル・パーティーの場を、
未来のために槍玉に挙げて訴えかける。
川上弘美『神様 2011』
著者のデビュー作「神様」、そしてその改作である表題作、の二篇を収める。
改作といっても、文言の大同小異があるだけだ。
むしろ、その相違こそが、著者の訴えるところ。
「神様 2011」は、2011年3月11日に起きた「あのこと」以降に、
「神様」のときと同じく、くまと散歩にいく話だ。
書き出しはまったく同じだし、結末も変わらない。
ただ、原発事故を経ているから、町に残る人は少ないし、
くまが川でしとめた魚は食べることができない。
帰宅後は一日の被曝線量を測る。
原発や放射能汚染の影が、小説舞台に影を落とすことはない。
ただ、河川敷に草が生えて草いきれがするような当たり前さで、
原発事故が過去にあって、外出が被曝をもたらすだけなのだ。
「あのこと」から一年と四ヶ月が経ったいま、
過ぎ去った時分として、気持にけりをつけつつある内心に、
このわずかな相違の改作に揶揄されて、ようやく気づく。
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