ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』
主人公の名前がムッシューで、29歳にして大企業の課長。
フランス人らしいが押しが弱く、
厄介に巻き込まれる反動でおいしいとこ取りをしているような印象。
振り回されながらも飄々としていて、その内心を表すように、
「いろんな人が、いるもんです」「万事は、場合によりけりだ」と、
挿入句のように繰り返される。
それでいて大きな事件が起きることのないまま、
ムッシューの人生は順風満帆に流れてゆく。終わり。
──言ってしまえば、人生を莫迦にしたような小説だが、
テンポが良くて、ところどころがクスリと面白い。
2006年11月16日にトゥーサンが講演会で駒場に来たとき、
自分は仙台から新幹線に乗って聴きにいった。
ベケットについて熱く語っていたのをぼんやりと憶えている。
内田百閒『冥途』
福武文庫版。
第六高等学校の交友誌初出の「烏」も併録。
この初期作品から、あの怪談調・「夢十夜」調は変わっておらず、
むしろ、ますます研ぎ澄まされていっていることがわかる。
ある種の永遠性が、どうしてこのように具体的に描き出されるのか。
それは、幼少期のきらきらした記憶のようでもあり、
じわじわと背筋に上ってくる怪談のようでもあり、
不思議と鮮明に憶えていて消えない夢のようでもある。
細部を徹底して欠いたシンボルが主人公と渉りあうからか、
相手の表情と内心がまるでのっぺらぼうで見えないまま話が進むからか。
開高健『戦場の博物誌 開高健短篇集』
講談社文芸文庫版。副題には単に短篇集とあるが、
表題どおり、筆者がベトナム戦争に取材した内容が主。
読み終えてから頭に残ったイメージをかき集めると、
戦争の印象が実は大きく変わった、と感じずにはいられなかった。
戦争の現場として思い浮かべるのは、戦場だ。
だが、その後背で戦時景気に沸く街や、
村ともゲリラともつかない生活が戦地すぐそばで悠々と営まれているとは、
戦場の二文字からは決して連想することはできない。
どちら側の味方かころころ鞍替えし、黙して語らない「たそがれ村」の存在、
前線の父親のすぐそばに洗面器ひとつで来て暮らす家族の姿、
地雷で吹っ飛ぶ路線バス、盛り場の酒場の爆弾テロ、
米兵に笑顔でたかりつつときにゲリラとなって攻撃する子供たちの描写は、
もはや戦場の交戦が戦争ではない、と気づかせる。
ベトナムに戦争は遍在していた、
アメリカ式に一刀両断するシンプルな思考では、
まるで理解できない戦争が、ベトナムで展開されていたのだ、と。
だから枯葉剤が撒かれたし、
「民間人」(純粋な民間人はいなかった?)への虐殺も、
凄惨で悲劇的な報道写真の数々もなされたのだ、と初めて気づいた。
表題作「戦場の博物誌」では、パレスチナの国境沿いの農村も描かれる。
それも、生活が戦争と隣り合わせで営まれるという、非日常的な日常の描写だ。
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