16.9.12
根岸吉太郎『透光の樹』、森敦『われもまた おくのほそ道』
根岸吉太郎『透光の樹』
高樹のぶ子原作の映画化。
千桐と郷の、中年の円熟したとも、若く急いで狂おしいともいえる
恋愛をのみ主眼に描いていて、その周囲がまさに背景でしかなかった。
あるいは生成論的に、ある種のリニアな進行といえるかもしれない。
森敦『われもまた おくのほそ道』
松尾芭蕉『おくのほそ道』を、その経路を辿りながら、
組み立てられた構造を明らかにしてゆく。
森敦の明晰さには、ほんとうに驚かされる。
『おくのほそ道』は紀行文だ。
だがその中に、義仲、西行、杜甫・李白などを大いに織り込みながら、
陰陽、晴雨といった対応関係を織りなしてゆく。
この精緻な構造をなすために、
芭蕉は、訪れた順序を組み替えたり、
泊まっていないところに泊まったと書いたりしている。
フィクションすなわち文学なのだということを知らされた。
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の「行く春」に始まり、
「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」の「行く秋」に終わってなお、
まだ「旅をすみかとす」る道は続く。
13.9.12
フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』、唯円『歎異抄』
フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』
原題は « Le temps qui reste » 。
癌の宣告を受けた主人公が、原題のとおり残されたわずかな時間の中で、
自分の日常と人間関係にけりをつけ、人生にけりをつけてゆく。
初めは拒絶をもって、やがては受容をもって、周囲との関係を修復してゆく。
巻き毛の子供が主人公の幼少時代の象徴としてしばしば現れる。
または、同棲していたが別れてしまう恋人も、その延長だろう。
子供が陽の下に、主人公は陰にいて長袖で肌を隠し、
生死の境目が陰翳で区切られている。
それを突き破るシーンとしての、教会での子供の悪ふざけが、
あまりに無邪気であり、陰鬱な教会の中での天使のようにさえ映されていた。
それが、主人公が陰から出ようとする転換点となる。
最期は西行のように美しく、南仏の浜辺に横たわって波音に濯がれながら死を迎える。
主人公の祖母のラウラ(ジャンヌ・モロー)が印象的だった。
おばあさんなのに、というかおばあさんらしい達観がどことなく妖艶で、
奔放に生きた生涯を誇って余生を一人で立てている強さがあった。
唯円『歎異抄』
信心は起こるのではなく阿弥陀によって起こさせられ、
念仏によって縋ることで浄土に行ける。
そもそも凡夫には修行による即身成仏は難しい、
よってただ縋るべし。──
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
「自力作善のひとは[…]弥陀の本願にあらず」
という、念仏の「一向専修」のみによる徹底した本願他力の考え方が、
親鸞没後の異説を封じつつ淡々と述べられている。
大乗仏教という救済思想の一つの極みではないかと思った。
善悪、貧富を超えてただひたすら信心を求めるという、
"仏の下の平等"という思想が、徹底されている。
ただ、……念仏と救済のメカニズムはどうなっているのか。
「念仏には、無義をもつて義とす。
不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき」と十章にある。
可知不可知に明確な線引きをし、
「凡夫」たちを神ならぬ仏の子羊たちとしているように感じた。
それが鎌倉仏教からの、仏教の大衆化ということなのだろうか。
別に批判などではない。宗教である以上、救済されればよいからだ。
ただ純粋に、仏教史的な意味合いで、
鎌倉仏教の時代からは、仏教が学系から純粋な宗教へと転じた、
その一つの新しい思想を読み取ったように思った。
5.9.12
夏目漱石『三四郎』、魚喃キリコ『strawberry shortcakes』
夏目漱石『三四郎』
『草枕』が美の問題と俗世の煩いの二本の軸で進行し、
結末で見事に合一させる小説だとすると、
『三四郎』は学問世界の飄々と人間関係・恋愛の二軸を
混ぜ合わせてその波紋をみながら、結局二つを溶かしあわせない。
柄谷行人が解説で、ストーリー第一主義への重要なアンチテーゼと評している。
ストーリーを綴っておきながらそれを超える訴えかけがある、という気が、
確かに前期の夏目漱石にはあるように思う。
魚喃キリコ『strawberry shortcakes』
フランス語版で読んだ。仏題ならmille-feuilles aux fraisesとなろう。
扱う主題は、日常の倦怠感とやるせなさ、恋愛。
とはいえ、それを日本語で読まなかったことが、一つの新鮮さだった。
それはむしろ、言葉からは最小限の科白のみを得て、
絵の語ることに耳を傾けることができたことによるのかもしれない。
いや、確かに科白も最小限に絞られて、一字一句が語るのだけれども、
翻訳はどうしても日本語が含み持たせていた意の迷いや強さ、震えや弱さの、
すべてを汲み尽くして移し替えることはできない。
だから逆に、絵の展開が私に多くを語った。
それは、魚喃キリコの作風を味わう上で、
決してマイナスではなかったのではないか。
影絵のような描写が、ストーリー展開をそのモーションの小さな一部で切り取る。
それは、あるいはほんの小さな手先だったり、複雑な表情だったりする。
静かで淡々としているにもかかわらず、
コマの一つ一つが抑制された静かな内容で想像力をかき立てる。
特に、表情の機微はほんとうに巧い。
『草枕』が美の問題と俗世の煩いの二本の軸で進行し、
結末で見事に合一させる小説だとすると、
『三四郎』は学問世界の飄々と人間関係・恋愛の二軸を
混ぜ合わせてその波紋をみながら、結局二つを溶かしあわせない。
柄谷行人が解説で、ストーリー第一主義への重要なアンチテーゼと評している。
ストーリーを綴っておきながらそれを超える訴えかけがある、という気が、
確かに前期の夏目漱石にはあるように思う。
魚喃キリコ『strawberry shortcakes』
フランス語版で読んだ。仏題ならmille-feuilles aux fraisesとなろう。
扱う主題は、日常の倦怠感とやるせなさ、恋愛。
とはいえ、それを日本語で読まなかったことが、一つの新鮮さだった。
それはむしろ、言葉からは最小限の科白のみを得て、
絵の語ることに耳を傾けることができたことによるのかもしれない。
いや、確かに科白も最小限に絞られて、一字一句が語るのだけれども、
翻訳はどうしても日本語が含み持たせていた意の迷いや強さ、震えや弱さの、
すべてを汲み尽くして移し替えることはできない。
だから逆に、絵の展開が私に多くを語った。
それは、魚喃キリコの作風を味わう上で、
決してマイナスではなかったのではないか。
影絵のような描写が、ストーリー展開をそのモーションの小さな一部で切り取る。
それは、あるいはほんの小さな手先だったり、複雑な表情だったりする。
静かで淡々としているにもかかわらず、
コマの一つ一つが抑制された静かな内容で想像力をかき立てる。
特に、表情の機微はほんとうに巧い。
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