13.9.12
フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』、唯円『歎異抄』
フランソワ・オゾン『ぼくを葬る』
原題は « Le temps qui reste » 。
癌の宣告を受けた主人公が、原題のとおり残されたわずかな時間の中で、
自分の日常と人間関係にけりをつけ、人生にけりをつけてゆく。
初めは拒絶をもって、やがては受容をもって、周囲との関係を修復してゆく。
巻き毛の子供が主人公の幼少時代の象徴としてしばしば現れる。
または、同棲していたが別れてしまう恋人も、その延長だろう。
子供が陽の下に、主人公は陰にいて長袖で肌を隠し、
生死の境目が陰翳で区切られている。
それを突き破るシーンとしての、教会での子供の悪ふざけが、
あまりに無邪気であり、陰鬱な教会の中での天使のようにさえ映されていた。
それが、主人公が陰から出ようとする転換点となる。
最期は西行のように美しく、南仏の浜辺に横たわって波音に濯がれながら死を迎える。
主人公の祖母のラウラ(ジャンヌ・モロー)が印象的だった。
おばあさんなのに、というかおばあさんらしい達観がどことなく妖艶で、
奔放に生きた生涯を誇って余生を一人で立てている強さがあった。
唯円『歎異抄』
信心は起こるのではなく阿弥陀によって起こさせられ、
念仏によって縋ることで浄土に行ける。
そもそも凡夫には修行による即身成仏は難しい、
よってただ縋るべし。──
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
「自力作善のひとは[…]弥陀の本願にあらず」
という、念仏の「一向専修」のみによる徹底した本願他力の考え方が、
親鸞没後の異説を封じつつ淡々と述べられている。
大乗仏教という救済思想の一つの極みではないかと思った。
善悪、貧富を超えてただひたすら信心を求めるという、
"仏の下の平等"という思想が、徹底されている。
ただ、……念仏と救済のメカニズムはどうなっているのか。
「念仏には、無義をもつて義とす。
不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき」と十章にある。
可知不可知に明確な線引きをし、
「凡夫」たちを神ならぬ仏の子羊たちとしているように感じた。
それが鎌倉仏教からの、仏教の大衆化ということなのだろうか。
別に批判などではない。宗教である以上、救済されればよいからだ。
ただ純粋に、仏教史的な意味合いで、
鎌倉仏教の時代からは、仏教が学系から純粋な宗教へと転じた、
その一つの新しい思想を読み取ったように思った。
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