ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』
一状況を描くことで問いかけることが小説の特権だと、あらためて思った。
この作品はベケット『ゴドーを待ちながら』によく似ている。
見棄てられた国境の砦で、永遠に来ない敵を待ちながら一生を棒に振る軍人。
あまりに虚しいこの物語は、仕事が生きがいのサラリーマンを譬えていないか。
永遠に来ない敵を見張るという無駄な行為は、完璧主義の一側面ではないか。
心理描写も行き届いているし、構成も巧かった。
非常におもしろく読んだ。
井上章一『つくられた桂離宮神話』
あとがきで作者が述べるように、
「時代が私を束縛する」という好例としての桂離宮が時代考証される。
こういった、先入観を水垢離するような著作は、おもしろい。
ブルーノ・タウトがモダニズムを図らずも代弁して、
日本美=質素な美意識、という国粋趣味を裏づけるまで。
さらに、建築史から離れて、旅行者などが桂離宮をどう捉えていたか、など、
建築界と旅行ガイドとの乖離もまた、学術と世間一般との関係性からも、
おもしろかった。
結局、人は何らかの権威や時代に縋って判断をしている。
桂離宮は一昨日に参観した。
インターネット申込の定員はあまりに限られているそうで、
先週に京都御苑内の宮内庁事務所で修学院離宮、仙洞御所とともに予約した。
人口に膾炙しているだけの見応えも感動もなく、
あまりの見立ての多さと、毒抜きされた細部までのしつこいこだわりが、
おおぜいのグループ参観の足取りに乗ってせかせかと開陳されただけだった。
愛でられた箱庭、という印象だった。
ガイドが逐一説明する随所の来歴は、いちいち参観者を頷かせていて、
カラスの屍骸が転がっていたとしてもしげしげと鑑賞しそうなくらいだった。
参観ルートが書院内に入らなかったため、桂棚は見られなかった。
同日に行った修学院離宮は、山と街並みを縮景に取り入れ、
しかも農村風景に溶け込んだ田舎の名家という趣でおもしろかった。
明くる昨日、仙洞御所は桂離宮ほどぎっしり詰め込まれた感がないぶん、まだよかった。
26.12.13
19.12.13
『共感覚の世界観』「弘前の秩父宮」『イタリア広場』『夢のなかの夢』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』『冥途めぐり』『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
原田武『共感覚の世界観』
心理学・行動科学的な書物ではあっても、
かつ文藝評論的で面白かった。
ランボーの「母音」をはじめ、
共感覚的レトリックの分析が散りばめられ、
それだけでも充分におもしろく読めた。
共感覚表現の方向性として、
転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚→熱覚」の順に進む
(例:「暖かい色」(触覚→視覚)、「甘い声」(味覚→嗅覚))、
という言語学者ウルマン他の説が紹介される。
共感覚の幻想的な、現実の割れ目のような効果は、
五感の及ばないところに感覚を見出だそうとして立ち現れる。
また、尾崎翠『第七官界彷徨』を引いて、
「思いがけないもの同士を結びつけ、私たちの日常に予期しない新しさと驚きを導き入れる」
「人間がすべてについて偏見を持たず、カテゴリー間にそれほど神経質ではなかった原初の世界」を垣間見せる、
そう共感覚的世界を表現する。
共感覚が商品開発に援用されているという事例も挙げている。
シリアルの砕く歯触り、飛行機内の香りと色の調和、などは、
ブランド確立のための相乗効果だという。
茂木謙之介「弘前の秩父宮」
『歴史評論』(2013年10月)からの抜刷版。
副題は「戦中期地域社会における皇族イメージの形成と展開」。
あくまで憶測だけれども、1935〜1936年という時期が、
秩父宮が弘前においてシンボル化され、
かつ急速に歴史化されるという現象を生む上での、
大きな素地になっているのではないだろうか。
つまり、日中戦争前夜の軍事的お祭りムードが当時の日本を覆っていて、
秩父宮が弘前に軍人として赴任することが、
一つの時代の具現化だったのではないか。
というのは、大正期や太平洋戦争開戦後であれば、
おそらく少し違った受容が秩父宮に訪れたのではないか、そう考える。
アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(再読)
細部が語られない全体を語り、
語られた部分々々が間の語られない部分を大いに語る。
初めにエピローグが置かれるように、
そして、占い師ゼルミーラがいうように、時間の流れが幻想的。
文学は小説によって時間を掌握すべきだ。
詩のようなリズムではなく、歴史的な時間を。
アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』
藝術家たちの見たであろう夢が、想像で描かれる。
気の効いた短篇集になっている。
ガルガンチュアとともに素晴らしい夕食を味わうラブレーの夢が、
一番気に入った。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
RPGかライトノベルか。これはもはや春樹でも小説でもない気がする。
村上春樹は細部の作りが細かいはずなのに、
ストーリーに引っぱられてそういったところは抑制されている。
この小説が何を言おうとしているのか。
それは、次の二箇所だと思う。
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」(p.40)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p.307)
これが、日本の戦後への村上春樹の問いかけであることを、
私は心から望む。
ちなみに、アカ、アオ、シロ、クロの四人の登場人物の色は、
庄司薫の四部作のそれぞれと一致している。
川田宇一郎の評論「由美ちゃんとユミヨシさん」の指摘がここまで及んでいる、
そう思った。
あるいは、穿ちすぎているかもしれない。
鹿島田真希『冥途めぐり』
鹿島田真希の、思考の進行が行動を引っぱってゆくような、
そういったドライブ感は、少しだけ抑制されている。
こういうおとなしくなった小説が、芥川賞向けということなのかもしれない。
作者の私生活に基づいた小説だが、
惨めな家族という別の主軸がしっかりと打ち据えられていて、
その哀れさが痛々しいくらい滲み出て、おもしろかった。
併録作は、鹿島田真希らしい小品という感じ。
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
町田康が女性歌手ならこんな感じなのだろうな、というのを地で行っている。
実際、歌手でもあるし。
町田康の主題は「生活」だが、川上未映子は「存在」と「身体」だ。
併録作も『乳と卵』もそうだが、川上未映子は終盤になって他者の目が割り込む。
『ヘヴン』ではその他者がいじめの側として大きく存在している。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、
起承転結の後半部を委ねるようにして他者がいきなり現れる。
他者は語りを終わらせるためのデウス・エクス・マキナのようだ。
心理学・行動科学的な書物ではあっても、
かつ文藝評論的で面白かった。
ランボーの「母音」をはじめ、
共感覚的レトリックの分析が散りばめられ、
それだけでも充分におもしろく読めた。
共感覚表現の方向性として、
転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚→熱覚」の順に進む
(例:「暖かい色」(触覚→視覚)、「甘い声」(味覚→嗅覚))、
という言語学者ウルマン他の説が紹介される。
共感覚の幻想的な、現実の割れ目のような効果は、
五感の及ばないところに感覚を見出だそうとして立ち現れる。
また、尾崎翠『第七官界彷徨』を引いて、
「思いがけないもの同士を結びつけ、私たちの日常に予期しない新しさと驚きを導き入れる」
「人間がすべてについて偏見を持たず、カテゴリー間にそれほど神経質ではなかった原初の世界」を垣間見せる、
そう共感覚的世界を表現する。
共感覚が商品開発に援用されているという事例も挙げている。
シリアルの砕く歯触り、飛行機内の香りと色の調和、などは、
ブランド確立のための相乗効果だという。
茂木謙之介「弘前の秩父宮」
『歴史評論』(2013年10月)からの抜刷版。
副題は「戦中期地域社会における皇族イメージの形成と展開」。
あくまで憶測だけれども、1935〜1936年という時期が、
秩父宮が弘前においてシンボル化され、
かつ急速に歴史化されるという現象を生む上での、
大きな素地になっているのではないだろうか。
つまり、日中戦争前夜の軍事的お祭りムードが当時の日本を覆っていて、
秩父宮が弘前に軍人として赴任することが、
一つの時代の具現化だったのではないか。
というのは、大正期や太平洋戦争開戦後であれば、
おそらく少し違った受容が秩父宮に訪れたのではないか、そう考える。
アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(再読)
細部が語られない全体を語り、
語られた部分々々が間の語られない部分を大いに語る。
初めにエピローグが置かれるように、
そして、占い師ゼルミーラがいうように、時間の流れが幻想的。
文学は小説によって時間を掌握すべきだ。
詩のようなリズムではなく、歴史的な時間を。
アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』
藝術家たちの見たであろう夢が、想像で描かれる。
気の効いた短篇集になっている。
ガルガンチュアとともに素晴らしい夕食を味わうラブレーの夢が、
一番気に入った。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
RPGかライトノベルか。これはもはや春樹でも小説でもない気がする。
村上春樹は細部の作りが細かいはずなのに、
ストーリーに引っぱられてそういったところは抑制されている。
この小説が何を言おうとしているのか。
それは、次の二箇所だと思う。
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」(p.40)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p.307)
これが、日本の戦後への村上春樹の問いかけであることを、
私は心から望む。
ちなみに、アカ、アオ、シロ、クロの四人の登場人物の色は、
庄司薫の四部作のそれぞれと一致している。
川田宇一郎の評論「由美ちゃんとユミヨシさん」の指摘がここまで及んでいる、
そう思った。
あるいは、穿ちすぎているかもしれない。
鹿島田真希『冥途めぐり』
鹿島田真希の、思考の進行が行動を引っぱってゆくような、
そういったドライブ感は、少しだけ抑制されている。
こういうおとなしくなった小説が、芥川賞向けということなのかもしれない。
作者の私生活に基づいた小説だが、
惨めな家族という別の主軸がしっかりと打ち据えられていて、
その哀れさが痛々しいくらい滲み出て、おもしろかった。
併録作は、鹿島田真希らしい小品という感じ。
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
町田康が女性歌手ならこんな感じなのだろうな、というのを地で行っている。
実際、歌手でもあるし。
町田康の主題は「生活」だが、川上未映子は「存在」と「身体」だ。
併録作も『乳と卵』もそうだが、川上未映子は終盤になって他者の目が割り込む。
『ヘヴン』ではその他者がいじめの側として大きく存在している。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、
起承転結の後半部を委ねるようにして他者がいきなり現れる。
他者は語りを終わらせるためのデウス・エクス・マキナのようだ。
1.12.13
ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』、多木浩二『生きられた家』、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』、絲山秋子『沖で待つ』、米澤泉『コスメの時代』
ヤコブ・フォン・ユクスキュル/ゲオルグ・クリサート『生物から見た世界』
環境そのものは知覚できず、生物それぞれの知覚が認識できる環世界(Umwelt)がある。
環世界において、主体は知覚世界を知覚器官で知覚し、
作用世界を作用器官で作用させる。
こうして客体は知覚され作用される。
知覚器官が作用器官へ繋がる部分こそが主体である。
この機能環は、神経の接点が主体の要であり、
脊髄や脳といった神経器官がもとは
神経の接点にすぎなかったという進化論的観点にも通じる。
環世界の概念は生物学をデカルト的な二元論から解き放ち、
人間を生物の中に置いて相対化させた。
だが、魔術的環世界という先天的な作用世界の存在を紹介していて、
本能という概念を否定していることと矛盾しているように思われた。
多木浩二『生きられた家 経験と象徴』
家はもともと外界を壁と屋根で仕切った空間にすぎない。
それは同時に、プライベートという特権的な空間に位置づけられ、各機能に分化され、
故郷の概念を附与され、あるいはムラや国家といった共同体との象徴関係におかれる。
家とは、あるいは住むとは、なんとも自明でありかつ捉えがたい。
この多重性すべてをひっくるめて語っているところが、この本を読み進めるうえで面白かった。
「家は広い意味でも技術を蓄積し、長い世代の人間に伝達してきたのであるそういう意味では、家は外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な感性の基準となるべきものにいたるまでが記入された書物であった」(p.15)
折しも、十一月初旬に京都御所北の冷泉家住宅を観る機会があった。
竈(くど)には荒神棚が祀られ、玄関は迎えるものの身分に応じて三つあり、
プライベート空間は隅へ追いやられている。
それは住む家というだけでなく、
日本の貴族文化が合理性と精神性をどう捉えていたかという根源に関わる。
それを見せつけられた気がした。
(そして、その住宅がもはや本来の目的ではなく
保存のために存続・公開されていることは、
日本の貴族文化がすでに死んで博物館に収められていることを意味する)
また、空間と言語の類縁性において、トポスは自我である。
「空間を枠として行為を展開するというより、行為は空間として構造化される」
という指摘は、生物学的というよりは生成論的だ。
「このような空間化能力は、ルロワ=グーラン流にいえば、言語能力とも、身体的(技術的)能力とも結びついたプログラムとして保有され、また文化のなかに外化された記憶として刻みつけられ、人間は学習によって空間としての文化を身につけていくのである。このように生が空間化することが、建築を非言語的、空間的なテキスト(象徴の生成)として読みうる理由であり、テキストがまたつねに空間的である理由なのである」(p.73)
よって、建築様式は文化論的・人類学的に観察される。
川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』
初期作品よりも、小説的にお上品に纏まってしまったように感じられた。
『乳と卵』にあったような、言葉がリズミカルかつ大胆に歌い上げる文体は、
川上弘美みたいな透き通った文体の向こうへ消えてしまった気がする。
確かに、文章も細部も巧いけれど、型に嵌まった気がする。
その意味で、川上未映子は詩人から小説家になってしまった。
終盤、三束さんが姿を消し、聖と急激に仲を取り戻すところは、
自らいくつも連立させた方程式をついに解けなかった先の落ち着けどころ、という心地だった。
絲山秋子『沖で待つ』
表題作は、短篇として面白かった。
逆に、今(いや、一時代前?)の時代だから、
会社の同期という不思議な仲間意識が面白いのだろうし、
文学というより短篇小説だな、と思った。
ここに馴染めない人間は綿矢りさを読めばいい、そういう二者択一。
私はそもそも、黒井千次を択ぶ。
表題作以外には、「勤労感謝の日」「みなみのしまのぶんたろう」。
まぁ、なんとも。
米澤泉『コスメの時代 「私遊び」の現代文化論』
八十年代以降の日本大衆文化の推移が、
これまで具体的、綿密かつ大胆に分析された本を、読んだことはなかった。
その意味で、文学における物語が八十年代に終わったこと
(田中康夫『なんとなく、クリスタル』や小林恭二『小説伝』)や、
ラノベのような私過剰のキャラクター小説が拡がっていることと、
並行を見出ださずにはいられなかった。
序盤の「はしがき」が、本書のすべてを概説している。
「まず序章において、八〇年代以降のファッションと化粧の流れを概略的に述べる。その後、ファッションから化粧へというシフトが起こった理由を考えるために、少女、ファッション誌とそのモデル、ブランド、フレグランス、フリークという五つの事例を俎上に載せていく。
第一章では、少女と少女文化の消滅の過程を辿り、中高生はもちろん、小学生までもが化粧をするようになった理由を考察する。第二章では、八〇年代には一つの完結した物語を作り上げていたファッション誌が、九〇年代にどのように崩壊し、ただのモデル情報誌、通販カタログとしてしか機能しなくなったのかという経緯を追う。第三章では衣服というものの意味づけが八〇年代から九〇年代にかけていかに変化したか、具体的にはいわゆるDCブランド服がどのように魔法を解かれてリアルクローズとなったかを、それぞれの時代を代表するブランドの服をもとに検証する。第四章では、主にフレグランスの名前に焦点を当てて、その移り変わりのなかにフレグランスを纏う私の変容を読み解く。そして、第五章では、ファッションから化粧へのシフトにおいて、看過できない存在となったコスメフリークについて分析し、彼女たちが同時期に一般化したオタクと表裏一体の存在であることを明らかにする」(p.ii)
未来を見出だせなくなった元・少女たちが
今や内輪を最優先するコミュニケーションツール、として
ガングロを分析するところは、特に面白かった。
物語(として商品を売ること)の終焉と、
日常性の最重視は、その時代から何も変わらない。
むしろ、インターネットの力を借りて、
その短サイクルはさらに輪をかけているように感じられる。
環境そのものは知覚できず、生物それぞれの知覚が認識できる環世界(Umwelt)がある。
環世界において、主体は知覚世界を知覚器官で知覚し、
作用世界を作用器官で作用させる。
こうして客体は知覚され作用される。
知覚器官が作用器官へ繋がる部分こそが主体である。
この機能環は、神経の接点が主体の要であり、
脊髄や脳といった神経器官がもとは
神経の接点にすぎなかったという進化論的観点にも通じる。
環世界の概念は生物学をデカルト的な二元論から解き放ち、
人間を生物の中に置いて相対化させた。
だが、魔術的環世界という先天的な作用世界の存在を紹介していて、
本能という概念を否定していることと矛盾しているように思われた。
多木浩二『生きられた家 経験と象徴』
家はもともと外界を壁と屋根で仕切った空間にすぎない。
それは同時に、プライベートという特権的な空間に位置づけられ、各機能に分化され、
故郷の概念を附与され、あるいはムラや国家といった共同体との象徴関係におかれる。
家とは、あるいは住むとは、なんとも自明でありかつ捉えがたい。
この多重性すべてをひっくるめて語っているところが、この本を読み進めるうえで面白かった。
「家は広い意味でも技術を蓄積し、長い世代の人間に伝達してきたのであるそういう意味では、家は外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な感性の基準となるべきものにいたるまでが記入された書物であった」(p.15)
折しも、十一月初旬に京都御所北の冷泉家住宅を観る機会があった。
竈(くど)には荒神棚が祀られ、玄関は迎えるものの身分に応じて三つあり、
プライベート空間は隅へ追いやられている。
それは住む家というだけでなく、
日本の貴族文化が合理性と精神性をどう捉えていたかという根源に関わる。
それを見せつけられた気がした。
(そして、その住宅がもはや本来の目的ではなく
保存のために存続・公開されていることは、
日本の貴族文化がすでに死んで博物館に収められていることを意味する)
また、空間と言語の類縁性において、トポスは自我である。
「空間を枠として行為を展開するというより、行為は空間として構造化される」
という指摘は、生物学的というよりは生成論的だ。
「このような空間化能力は、ルロワ=グーラン流にいえば、言語能力とも、身体的(技術的)能力とも結びついたプログラムとして保有され、また文化のなかに外化された記憶として刻みつけられ、人間は学習によって空間としての文化を身につけていくのである。このように生が空間化することが、建築を非言語的、空間的なテキスト(象徴の生成)として読みうる理由であり、テキストがまたつねに空間的である理由なのである」(p.73)
よって、建築様式は文化論的・人類学的に観察される。
川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』
初期作品よりも、小説的にお上品に纏まってしまったように感じられた。
『乳と卵』にあったような、言葉がリズミカルかつ大胆に歌い上げる文体は、
川上弘美みたいな透き通った文体の向こうへ消えてしまった気がする。
確かに、文章も細部も巧いけれど、型に嵌まった気がする。
その意味で、川上未映子は詩人から小説家になってしまった。
終盤、三束さんが姿を消し、聖と急激に仲を取り戻すところは、
自らいくつも連立させた方程式をついに解けなかった先の落ち着けどころ、という心地だった。
絲山秋子『沖で待つ』
表題作は、短篇として面白かった。
逆に、今(いや、一時代前?)の時代だから、
会社の同期という不思議な仲間意識が面白いのだろうし、
文学というより短篇小説だな、と思った。
ここに馴染めない人間は綿矢りさを読めばいい、そういう二者択一。
私はそもそも、黒井千次を択ぶ。
表題作以外には、「勤労感謝の日」「みなみのしまのぶんたろう」。
まぁ、なんとも。
米澤泉『コスメの時代 「私遊び」の現代文化論』
八十年代以降の日本大衆文化の推移が、
これまで具体的、綿密かつ大胆に分析された本を、読んだことはなかった。
その意味で、文学における物語が八十年代に終わったこと
(田中康夫『なんとなく、クリスタル』や小林恭二『小説伝』)や、
ラノベのような私過剰のキャラクター小説が拡がっていることと、
並行を見出ださずにはいられなかった。
序盤の「はしがき」が、本書のすべてを概説している。
「まず序章において、八〇年代以降のファッションと化粧の流れを概略的に述べる。その後、ファッションから化粧へというシフトが起こった理由を考えるために、少女、ファッション誌とそのモデル、ブランド、フレグランス、フリークという五つの事例を俎上に載せていく。
第一章では、少女と少女文化の消滅の過程を辿り、中高生はもちろん、小学生までもが化粧をするようになった理由を考察する。第二章では、八〇年代には一つの完結した物語を作り上げていたファッション誌が、九〇年代にどのように崩壊し、ただのモデル情報誌、通販カタログとしてしか機能しなくなったのかという経緯を追う。第三章では衣服というものの意味づけが八〇年代から九〇年代にかけていかに変化したか、具体的にはいわゆるDCブランド服がどのように魔法を解かれてリアルクローズとなったかを、それぞれの時代を代表するブランドの服をもとに検証する。第四章では、主にフレグランスの名前に焦点を当てて、その移り変わりのなかにフレグランスを纏う私の変容を読み解く。そして、第五章では、ファッションから化粧へのシフトにおいて、看過できない存在となったコスメフリークについて分析し、彼女たちが同時期に一般化したオタクと表裏一体の存在であることを明らかにする」(p.ii)
未来を見出だせなくなった元・少女たちが
今や内輪を最優先するコミュニケーションツール、として
ガングロを分析するところは、特に面白かった。
物語(として商品を売ること)の終焉と、
日常性の最重視は、その時代から何も変わらない。
むしろ、インターネットの力を借りて、
その短サイクルはさらに輪をかけているように感じられる。
登録:
投稿 (Atom)