1.12.13

ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』、多木浩二『生きられた家』、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』、絲山秋子『沖で待つ』、米澤泉『コスメの時代』

 ヤコブ・フォン・ユクスキュル/ゲオルグ・クリサート『生物から見た世界』

環境そのものは知覚できず、生物それぞれの知覚が認識できる環世界(Umwelt)がある。
環世界において、主体は知覚世界を知覚器官で知覚し、
作用世界を作用器官で作用させる。
こうして客体は知覚され作用される。
知覚器官が作用器官へ繋がる部分こそが主体である。
この機能環は、神経の接点が主体の要であり、
脊髄や脳といった神経器官がもとは
神経の接点にすぎなかったという進化論的観点にも通じる。

環世界の概念は生物学をデカルト的な二元論から解き放ち、
人間を生物の中に置いて相対化させた。
だが、魔術的環世界という先天的な作用世界の存在を紹介していて、
本能という概念を否定していることと矛盾しているように思われた。


 多木浩二『生きられた家 経験と象徴』

家はもともと外界を壁と屋根で仕切った空間にすぎない。
それは同時に、プライベートという特権的な空間に位置づけられ、各機能に分化され、
故郷の概念を附与され、あるいはムラや国家といった共同体との象徴関係におかれる。
家とは、あるいは住むとは、なんとも自明でありかつ捉えがたい。
この多重性すべてをひっくるめて語っているところが、この本を読み進めるうえで面白かった。

家は広い意味でも技術を蓄積し、長い世代の人間に伝達してきたのであるそういう意味では、家は外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な感性の基準となるべきものにいたるまでが記入された書物であった」(p.15)

折しも、十一月初旬に京都御所北の冷泉家住宅を観る機会があった。
竈(くど)には荒神棚が祀られ、玄関は迎えるものの身分に応じて三つあり、
プライベート空間は隅へ追いやられている。
それは住む家というだけでなく、
日本の貴族文化が合理性と精神性をどう捉えていたかという根源に関わる。
それを見せつけられた気がした。
(そして、その住宅がもはや本来の目的ではなく
 保存のために存続・公開されていることは、
 日本の貴族文化がすでに死んで博物館に収められていることを意味する)

また、空間と言語の類縁性において、トポスは自我である。
空間を枠として行為を展開するというより、行為は空間として構造化される
という指摘は、生物学的というよりは生成論的だ。
このような空間化能力は、ルロワ=グーラン流にいえば、言語能力とも、身体的(技術的)能力とも結びついたプログラムとして保有され、また文化のなかに外化された記憶として刻みつけられ、人間は学習によって空間としての文化を身につけていくのである。このように生が空間化することが、建築を非言語的、空間的なテキスト(象徴の生成)として読みうる理由であり、テキストがまたつねに空間的である理由なのである」(p.73)
よって、建築様式は文化論的・人類学的に観察される。


 川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

初期作品よりも、小説的にお上品に纏まってしまったように感じられた。
『乳と卵』にあったような、言葉がリズミカルかつ大胆に歌い上げる文体は、
川上弘美みたいな透き通った文体の向こうへ消えてしまった気がする。
確かに、文章も細部も巧いけれど、型に嵌まった気がする。
その意味で、川上未映子は詩人から小説家になってしまった。

終盤、三束さんが姿を消し、聖と急激に仲を取り戻すところは、
自らいくつも連立させた方程式をついに解けなかった先の落ち着けどころ、という心地だった。


 絲山秋子『沖で待つ』

表題作は、短篇として面白かった。
逆に、今(いや、一時代前?)の時代だから、
会社の同期という不思議な仲間意識が面白いのだろうし、
文学というより短篇小説だな、と思った。
ここに馴染めない人間は綿矢りさを読めばいい、そういう二者択一。
私はそもそも、黒井千次を択ぶ。

表題作以外には、「勤労感謝の日」「みなみのしまのぶんたろう」。
まぁ、なんとも。


 米澤泉『コスメの時代 「私遊び」の現代文化論』

八十年代以降の日本大衆文化の推移が、
これまで具体的、綿密かつ大胆に分析された本を、読んだことはなかった。
その意味で、文学における物語が八十年代に終わったこと
(田中康夫『なんとなく、クリスタル』や小林恭二『小説伝』)や、
ラノベのような私過剰のキャラクター小説が拡がっていることと、
並行を見出ださずにはいられなかった。

序盤の「はしがき」が、本書のすべてを概説している。
まず序章において、八〇年代以降のファッションと化粧の流れを概略的に述べる。その後、ファッションから化粧へというシフトが起こった理由を考えるために、少女、ファッション誌とそのモデル、ブランド、フレグランス、フリークという五つの事例を俎上に載せていく。
 第一章では、少女と少女文化の消滅の過程を辿り、中高生はもちろん、小学生までもが化粧をするようになった理由を考察する。第二章では、八〇年代には一つの完結した物語を作り上げていたファッション誌が、九〇年代にどのように崩壊し、ただのモデル情報誌、通販カタログとしてしか機能しなくなったのかという経緯を追う。第三章では衣服というものの意味づけが八〇年代から九〇年代にかけていかに変化したか、具体的にはいわゆるDCブランド服がどのように魔法を解かれてリアルクローズとなったかを、それぞれの時代を代表するブランドの服をもとに検証する。第四章では、主にフレグランスの名前に焦点を当てて、その移り変わりのなかにフレグランスを纏う私の変容を読み解く。そして、第五章では、ファッションから化粧へのシフトにおいて、看過できない存在となったコスメフリークについて分析し、彼女たちが同時期に一般化したオタクと表裏一体の存在であることを明らかにする」(p.ii)

未来を見出だせなくなった元・少女たちが
今や内輪を最優先するコミュニケーションツール、として
ガングロを分析するところは、特に面白かった。
物語(として商品を売ること)の終焉と、
日常性の最重視は、その時代から何も変わらない。
むしろ、インターネットの力を借りて、
その短サイクルはさらに輪をかけているように感じられる。

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