26.12.13

ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』、井上章一『つくられた桂離宮神話』

 ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

一状況を描くことで問いかけることが小説の特権だと、あらためて思った。
この作品はベケット『ゴドーを待ちながら』によく似ている。
見棄てられた国境の砦で、永遠に来ない敵を待ちながら一生を棒に振る軍人。
あまりに虚しいこの物語は、仕事が生きがいのサラリーマンを譬えていないか。
永遠に来ない敵を見張るという無駄な行為は、完璧主義の一側面ではないか。

心理描写も行き届いているし、構成も巧かった。
非常におもしろく読んだ。


 井上章一『つくられた桂離宮神話』

あとがきで作者が述べるように、
「時代が私を束縛する」という好例としての桂離宮が時代考証される。
こういった、先入観を水垢離するような著作は、おもしろい。

ブルーノ・タウトがモダニズムを図らずも代弁して、
日本美=質素な美意識、という国粋趣味を裏づけるまで。
さらに、建築史から離れて、旅行者などが桂離宮をどう捉えていたか、など、
建築界と旅行ガイドとの乖離もまた、学術と世間一般との関係性からも、
おもしろかった。
結局、人は何らかの権威や時代に縋って判断をしている。

桂離宮は一昨日に参観した。
インターネット申込の定員はあまりに限られているそうで、
先週に京都御苑内の宮内庁事務所で修学院離宮、仙洞御所とともに予約した。
人口に膾炙しているだけの見応えも感動もなく、
あまりの見立ての多さと、毒抜きされた細部までのしつこいこだわりが、
おおぜいのグループ参観の足取りに乗ってせかせかと開陳されただけだった。
愛でられた箱庭、という印象だった。
ガイドが逐一説明する随所の来歴は、いちいち参観者を頷かせていて、
カラスの屍骸が転がっていたとしてもしげしげと鑑賞しそうなくらいだった。
参観ルートが書院内に入らなかったため、桂棚は見られなかった。

同日に行った修学院離宮は、山と街並みを縮景に取り入れ、
しかも農村風景に溶け込んだ田舎の名家という趣でおもしろかった。
明くる昨日、仙洞御所は桂離宮ほどぎっしり詰め込まれた感がないぶん、まだよかった。

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