原田武『共感覚の世界観』
心理学・行動科学的な書物ではあっても、
かつ文藝評論的で面白かった。
ランボーの「母音」をはじめ、
共感覚的レトリックの分析が散りばめられ、
それだけでも充分におもしろく読めた。
共感覚表現の方向性として、
転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚→熱覚」の順に進む
(例:「暖かい色」(触覚→視覚)、「甘い声」(味覚→嗅覚))、
という言語学者ウルマン他の説が紹介される。
共感覚の幻想的な、現実の割れ目のような効果は、
五感の及ばないところに感覚を見出だそうとして立ち現れる。
また、尾崎翠『第七官界彷徨』を引いて、
「思いがけないもの同士を結びつけ、私たちの日常に予期しない新しさと驚きを導き入れる」
「人間がすべてについて偏見を持たず、カテゴリー間にそれほど神経質ではなかった原初の世界」を垣間見せる、
そう共感覚的世界を表現する。
共感覚が商品開発に援用されているという事例も挙げている。
シリアルの砕く歯触り、飛行機内の香りと色の調和、などは、
ブランド確立のための相乗効果だという。
茂木謙之介「弘前の秩父宮」
『歴史評論』(2013年10月)からの抜刷版。
副題は「戦中期地域社会における皇族イメージの形成と展開」。
あくまで憶測だけれども、1935〜1936年という時期が、
秩父宮が弘前においてシンボル化され、
かつ急速に歴史化されるという現象を生む上での、
大きな素地になっているのではないだろうか。
つまり、日中戦争前夜の軍事的お祭りムードが当時の日本を覆っていて、
秩父宮が弘前に軍人として赴任することが、
一つの時代の具現化だったのではないか。
というのは、大正期や太平洋戦争開戦後であれば、
おそらく少し違った受容が秩父宮に訪れたのではないか、そう考える。
アントニオ・タブッキ『イタリア広場』(再読)
細部が語られない全体を語り、
語られた部分々々が間の語られない部分を大いに語る。
初めにエピローグが置かれるように、
そして、占い師ゼルミーラがいうように、時間の流れが幻想的。
文学は小説によって時間を掌握すべきだ。
詩のようなリズムではなく、歴史的な時間を。
アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』
藝術家たちの見たであろう夢が、想像で描かれる。
気の効いた短篇集になっている。
ガルガンチュアとともに素晴らしい夕食を味わうラブレーの夢が、
一番気に入った。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
RPGかライトノベルか。これはもはや春樹でも小説でもない気がする。
村上春樹は細部の作りが細かいはずなのに、
ストーリーに引っぱられてそういったところは抑制されている。
この小説が何を言おうとしているのか。
それは、次の二箇所だと思う。
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない」(p.40)
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」(p.307)
これが、日本の戦後への村上春樹の問いかけであることを、
私は心から望む。
ちなみに、アカ、アオ、シロ、クロの四人の登場人物の色は、
庄司薫の四部作のそれぞれと一致している。
川田宇一郎の評論「由美ちゃんとユミヨシさん」の指摘がここまで及んでいる、
そう思った。
あるいは、穿ちすぎているかもしれない。
鹿島田真希『冥途めぐり』
鹿島田真希の、思考の進行が行動を引っぱってゆくような、
そういったドライブ感は、少しだけ抑制されている。
こういうおとなしくなった小説が、芥川賞向けということなのかもしれない。
作者の私生活に基づいた小説だが、
惨めな家族という別の主軸がしっかりと打ち据えられていて、
その哀れさが痛々しいくらい滲み出て、おもしろかった。
併録作は、鹿島田真希らしい小品という感じ。
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』
町田康が女性歌手ならこんな感じなのだろうな、というのを地で行っている。
実際、歌手でもあるし。
町田康の主題は「生活」だが、川上未映子は「存在」と「身体」だ。
併録作も『乳と卵』もそうだが、川上未映子は終盤になって他者の目が割り込む。
『ヘヴン』ではその他者がいじめの側として大きく存在している。
「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、
起承転結の後半部を委ねるようにして他者がいきなり現れる。
他者は語りを終わらせるためのデウス・エクス・マキナのようだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿