○ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』
状況の多層性をそのままに写し取り、
かつ、語りとして口語に近く、一気に読ませる。
さまざまな登場人物に取材し、主張を結びつけ、
モザイクのように舞台を作り上げてゆく。
こういう文体が物語を構成するとき、
書き手の視点は一登場人物でしかなく、時系列は交錯する。
これぞ新しい文学だというほかない。
○ディーノ・ブッツァーティ『七人の使者 神を見た犬』
15の短篇。
ブッツァーティの描く舞台や主題は、だだっ広くて何もない空間や、
何かが起きていてその意味がわからない、といった、空虚な実体だ。
カフカや安部公房のようでいて、
しかし、状況を描くことに、より専念しているように読める。
病棟での立場と病状の搦む「七階」や、
階段を上がり下がりする「水滴」は、まるでカフカの短篇だ。
一方、「七人の使者」や
「なにかが起こった」はモーパッサン『オルラ』を思わせる。
○フランソワ・オゾン『まぼろし』
原題は « Sous le sable »。
sable(砂)のイメージが、
作中の特に後半に描かれる荒々しくも生の源泉のような海と対比される。
砂は脆く弱く崩れ、海は暴力的に強くすべてを吞む。
喪失を受け容れようとするとき、
強いはずの大人がとても脆い振る舞いをする。
夫を失くしてから周囲との間というものが崩れてゆく、
糸の切れたような心の動きが、哀れで物悲しく、よかった。
終盤の海の映像が印象的だった。
○町田康『ゴランノスポン』
「ゴランノスポン」は、
仲間や感謝や夢という言葉を妄信的に好む頭の悪い地元志向高卒のような、
薄っぺらい日常が、薄っぺらいまま真空保存されたような短篇。
「二倍」はわけのわからないベンチャー企業で空虚に稼ぐ幻を砕く。
「尻の泉」は自分だけが特別だということをひた隠しにして
最後に自らの平凡さに気づく。
どちらも、町田康『夫婦茶碗』らしい、
自らの市場価値と自己認識の落差にあえぐ短篇。
○呉座勇一『一揆の原理 日本中世の一揆から原題のSNSまで』
一揆、あるいは一味同心とは、クーデターではなく、
仲間であることを契約で再確認する行為だ、と本著は再定義する。
現世利益のために一揆し行為を起こすため、
寺一揆であっても本地垂迹による神を拠り所とする、
という佐藤弘夫の説が紹介されていて、面白かった。
○オルハン・パムク『雪』
原題の「雪」とは、トルコ語で"Kar"なのだそうだ。
舞台はトルコ東部のKars(カルス)、主人公はKa。
脈々と続くナショナルな思想としてのイスラムと、
反近代化としてケマル・アタチュルクが掲げた脱イスラム思想が、
ヨーロッパとトルコの思想的な対立として、作品の軸になる。
アジア・アフリカのどの国にとっても、西洋と自国の対立は思想的な主題だろう。
それは、中央と周縁の二項対立である以上に、
近代化という確固たる歴史を引き裂いて考えなければならない問題だからだ。
日本もトルコも近代化において類似する系譜を辿った。
幸せになろうともがくKaの立ち位置が、
軍事クーデターと思想=政治的対立によって、重層的に阻まれる。
Kaは個人として幸福になりたい。
その考え方がイスラム過激派の“紺青”のみならずカルスの市民にあわない。
Kaはドイツでハンス・ハンセンの自宅に招かれた妄想を回想して、こう語る。
「いいや、ひどく真面目な雰囲気があった。このことは言わねばならない。皆幸せだった。しかしこの国の人たちのようにやたらに、二言目には笑わなかった。とても真面目だった。もしかしたら、そのせいで幸せだったのかもしれない。人生とは、彼らにとって、責任ある、まじめなことだった。この国でのように、めくらめっぽうな努力や苦しい試練ではない。しかしこの真面目さは、生き生きしていて、ポジティフなものだった。カーテンの柄の熊や魚のように色とりどりでそれぞれ幸せだった」(p.306)
いかにして個人が幸せに生きるか。
Kaはトルコと亡命先ドイツに引き裂かれている。
物語の文体として、Kaは狂言回しに徹する。
Kaはすべての立場と登場人物と接触し、Kaの行く先々で事件が起き、
Kaの軌跡が物語の進行と一致する。
長篇として、時系列のたゆみやカットがなく、リニアな印象を受けた。
○鈴木智之『「心の闇」と動機の語彙 犯罪報道の一九九〇年代』
酒鬼薔薇聖斗事件として知られる神戸連続児童殺傷事件における、
「心の闇」言説についての研究。以下、メモ。
「心の闇」という言葉は報道において、1997年に急速に拡大し、2000年代においてはすでに定着した。神戸連続児童殺傷事件(1997年)、西鉄高速バスジャック事件(2000年)など少年犯罪の低年齢化がまず要因として挙がる。さらには、「ゆとり教育」の導入のような、教育の量から質への転換など、心の教育が重視されていたことも背景とされる。
「心の闇」が解き明かされるべきものとして言及されながらも、理解しえないものとして結論づけられる、このダブルバインド効果が、パラノイアックな状況を作り出す装置となっている。
1997年8月5日、神戸地裁は少年Aの精神鑑定を決定。しかし、精神鑑定は「心の闇」を少年A固有という判断を下さなかった。当時の報道は「少年Aは事件を起こす特異な暴力性を有していた」というストーリーに組み込むことを望みながらも、「少年はみな同様の暴力性を内在している」という相反する言説をも引く。
考えたこと。
1997〜2000年の少年犯罪は、
「人を殺してみたかった」だとか、「キレる」といった、
理解不能な犯行動機の嚆矢だった。
社会は「心の闇」言説を導入することで、
もやもやを感じながらも思考停止したのだろう。
やがて、思考停止は精神病の公汎化(アスペルガー、ADHDなど)に回収される。
社会が自らの病理を考えなくなり、個人への病名附与で擬似解決を図る、
そうしたパラノイアックな時代の先駆けが、
日本では1997年だったのではないか。
○チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』
光文社古典新訳文庫版。栗飯原文子訳。原題は"Things Fall Apart"。
ナイジェリアのイボ族の生活が描かれ、
キリスト教とイギリスの支配に崩されるまでが描かれる。
イボ族の習俗が厳しそうで、自分には合わないな、と思った。
○塚本邦雄『幻想紀行 ──地図を歩く──』
塚本邦雄らしく、すべて旧字旧仮名遣ひ。
自分も地図をずつと見ていて飽きない質なので、
その妄想を逞しくさせてくれる恰好の手助けとなる本だつた。
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