29.6.14

「夏の夜の夢」「テネシー・ウィリアムズ短篇集Vol.1」「子供の時間」

まめ芝。SPECIAL「夏の夜の夢」

6月28日(土)14:00、江古田ONE'S STUDIOにて。
原作の妖精ささめくドタバタ感が、
とても楽しげに演出されていて、観ていて楽しめた。
それが、縁と地位に縛られてしゃちほこばった人間の喜劇と混じりあう。
どちらが劇中劇なのかわからないようなストーリー進行は、
妖精たちが実際に観客席に座って茶々を入れながら観る、
というシーンによって、象徴的だった。
昼と夜、人間と妖精、都市と森、事実と揶揄いが、
どちらがどちらともつかずに本当と嘘、真実と劇と混じりあう、
シェークスピアらしさの神髄のようなものは、
やはり劇という藝術形式に乗ってこそなのだろう、と再認識した。
そして、小田島雄志の名訳は今なおすばらしい。

音楽と音が積極的に取り入れられていて、面白かった。
最初のダンスに始まり、パックの足首の鈴、濃いに落ちる瞬間の笛、など。

演じる一つの身体がそのすべてを受け持つ、
だから舞台と席は接していて遠い。
その身体性のような神秘的な何かを、特に伊織夏生氏から感じた。


深寅芥ワークショップ「テネシー・ウィリアムズ短篇集Vol.1」

6月28日(土)17:00、池袋スタジオネリムにて。
「踏みにじられたペチュニア事件」「バーサよりよろしく」の小品の二本立て。
日常のある象徴的な一シーンを切り取り、
それが一つの現代的な問いを投げかけている、
そういうところがテネシー・ウィリアムズの作品だとすると、
それが演じられるということが、どこまで日常的であり非日常的なのか。
(このとき、主題的には非日常的ということはたいてい偏執狂的なのかもしれないが)
そして、どの程度くたびれていて、どの程度おめかししているのか。
つまり、どの程度われわれの日常を写し取り、どの程度そこからずらすか。
それがこれらの作品を演出する難しさなのだろう、と思った。


スターダス・21カンパニー vol.20「子供の時間」

6月29日(日)15:00、阿佐ヶ谷アルシェにて。
原作はリリアン・ヘルマン作、小田島雄志訳。

第二幕から第三幕の移り変わりのときの、
カレンとマーサが有罪になる前後の場面展開が、とても秀逸だった。
舞台背景として配置された黒板の絵を
生徒の二人ほどが無邪気そうに消して回り、
最後に学校名に黒板消しで×をつける。
カレンとマーサが立ち尽くして、
信じられないといった顔で見ている。
生徒は出てゆき、閉められたドアには大きくGUILTYと書かれている。
演劇がこういった象徴的・反即自的な演出を舞台上に出現させるのは、
なかなか珍しいのではないか。
寡聞にして本作品の演出の一般事例を知らないが、
とにかく心に残った。

言葉がその意味から外れてゆき、
軋みを立てて毀れてゆく。
カレンが虚ろな目で呟くように、これが作品の主題だ。
言葉や信頼が事物そのものに太刀打ちできない。
言葉不信による疑心暗鬼の連鎖が情況を毀し、さらに関係の修復を妨げる。
子供は自分の当座の幸せこそを追求し、
言葉はその目的に従属している。メアリーはその極致だ。
責任、有罪、生きがい、そういった言葉(=概念)を重視する大人とは違う、
子供の法体系外の独自のルールがある。
これが、子供の時間、ということなのだろう。

素晴らしかった。
ただ、出だしの授業中の場面は騒然として、
序盤らしい登場人物紹介機能もあまり強くなかった。
ジョーはあまりに迷いのない善者で、
もっと苦悩や戸惑いがあってもよかったように思う。

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