奈良、京都、愛知のあちこちの寺院を巡って仏像を鑑賞する、
エッセイなのか紀行なのか。みうらじゅんのイラストがリアル。
とても深い知識と含蓄があるからこそ、
語りが柔らかくて奔放な捉え方でべらべら話せるのだろう。
仏像鑑賞の入門書にしては内容は上級だが、取っつきやすい。
それに、読み物として面白いし、恰好の解説書にもなる。
アーサー・クラインマン『八つの人生の物語』
副題に「不確かで危険に満ちた時代を道徳的に生きるということ」。
原題は "What Really Matters : Living a Moral Life Amidst Uncertainly and Danger"。
皆藤章・監訳、高橋洋・訳。
本を手に取るきっかけは、京都大学教育学研究科の主催の講演だった。
氏は、現代において病いは生理学的な異状ではなく隔離の理由づけであり、
社会が受け容れられなくなっている多様性へのレッテルと化していて、
製薬業界の市場となりつつある、と主張していた。
病い、あるいは苦しみ、そしてそれを背負って語るということは、
一つの防衛規制であるはずなのに、病いとされ治療対象とされる、
そんな社会が正常なのか、と訴えていた。
隣人の死は人を深い悲しみに沈め、震災は人を茫然自失に陥れる、
それは治療対象ではなく、受け容れようともがく正常な心の作用だ、と。
そして、医療は物理的・生理学的に異状を除去するのではなく、
その心に寄り添わなければならない、と主張していた。
病いは社会的なものであり、
個人やその人生は社会によって変わるし、逆に社会を変える。
要はそういうことで、その一貫性と毅然とした価値感にこそ希望がある、
そう著者は言っている。
医業とは疾病の治療術であるのみならず、患者に耳を傾け、寄り添うべきだ、
患者はベルトコンベアーの上を流れるだけの存在では決してない、と。
医療が高齢者へのケアへシフトしつつある現在、
医学のあり方を問い直し、そして、
延命至上主義から脱して人倫的に組み立て直すことは必須だろう。
もっとも、現在の介護や高齢者医療の現状をちらと一瞥するだけで、
そうした問題に気づいてさえいない寂しい現実がありありと透ける。
ジクムント・バウマン/デイヴィッド・ライアン
『私たちがすすんで監視し、監視される、この世界について
リキッド・サーベイランスをめぐる7章』
原題は"Liquid Surveillance : A Conversation"。
人が常にインターネットに繋がれ、SNSで監視しあう世の中について、
メールを介した対談の形式を採る。
「パノプティコンの悪夢」が「見捨てられたくない」願望に変えられたことが、
暴露の不安を気づかれる喜びによって抑制されている、という。
ディストピアについて。
オーウェル、ザミャーチンなどと並んでウエルベックが挙げられている。
古典的なディストピアは管理社会であり、Big Brotherがどこかにいる。しかし、ウエルベックにおけるディストピアは、どこにも管理者がいないまま、
どうにもならない社会が気まぐれな時代々々によって流されてゆく不安だ、と。
この指摘を読んで、この社会への漠然とした不満が言い表されている心地がした。
『現代思想 2012年5月号 特集:大阪』
ざっと内容は以下のとおり。
市営モンロー主義を生んだほどの官製都市大阪の戦前期、
戦後の東京一極集中と地盤沈下、
フェスティバルゲートや舞洲といった都市計画の相次ぐ失敗、
それから橋下前知事・現市長の強権的な自治の否定。
大阪はこれらすべての意味で、
非・東京、非・首都圏としての“地方”の先陣を切っている。
もっとも、東京と“地方”の関係は二元的ではなくフラクタル的だし、
大阪という一ケースは大阪にしか当てはまらない。
ただ、名古屋市や武雄市のような似た都市もあるし、
その意味で、何らかの一般性を見出だせる気もして、面白かった。
カール・シュミット『政治的なものの概念』
田中浩/原田武雄・訳。未来社。
原題は » Der Begriff des Politischen «。
政治的であるということの概念、とすべきか。
また、友・敵理論という翻訳は、
敵・味方理論のほうが分かりやすくはないか。
倫理の判断基準は善悪、経済では損得。
政治の判断基準は敵か味方か、という理論。
経済的価値判断に重きを置く自由主義への批判として、
結局は経済においても政治的な決議や拘束は
敵か味方かの価値判断に収斂するとして、シュミットは国際連盟を批判する。
事実、国際連盟は破綻したし、
国際連合は敵・味方の価値判断で思考停止して
たいてい身動きが取れないでいる。
以下、興味深かった箇所のメモ(シュミットの謂い):
敵は戦敵(ポレミオス)であり、私仇(エヒトロス)ではない。
「なんじの敵を愛せ」は私仇であり、
例えばイスラム教徒はキリスト教徒にとってあくまで単に戦敵だった。(p.19)
国家の全能と神は、世俗的か神学的かという表層的な違いでしかない。
最高の権力を保持して、人に死を覚悟させるほどの強権を発動できるという意味で、
国家は神と同等に立ち現れる。(p.42)
あらゆる政治理論は、性善説と性悪説のどちらに基づくかで分類できる。
政治が矯正の権力である以上、真の政治理論は後者である。(p.70)
シェークスピア『夏の夜の夢 あらし』
新潮文庫版。福田恒存・訳。
実は未読だったので、観劇の感動の覚めやらぬうちに手に取った。
「夏の夜の夢」はパックが最後に観客に謝辞を贈るし、
「あらし」はプロスペローが物語を語り始めるところで幕切れだ
(「ハムレット」も同様)。
つまり、二作品とも、劇が観客席へなだれ込んでくるような装置がある。
シェークスピアは劇ということ、現実世界の劇性、について、
(理論的にではなく人生観的に)どう考えていたのか、気になる。
ミシェル・ウエルベック『地図と領土』
原題は« La Carte et le Territoire »。
地図については、作品上で主人公の芸術家ジェドが
ミシュラン社製地図の写真作品を作るが、
領土とはなんだろうか。
おそらく、地図と領土の対比は、
空間的な拡がりについての具体物と概念、ということではないだろうか。
カードとテリトリー。
もちろん、そうではないのかもしれない。
作品の主題は多重的だ。藝術と経済、自己認識と評価、業界にいることと孤独。
引用を搦めたやや饒舌な文体は、リチャード・パワーズを思わせた。
面白い小説だった。
(以下、2015.3.2に追記)
舞台のパリは、夏目漱石『こころ』の先生の彷徨する東京のような
こころの揺れを象徴するものではなくて、
数字の区名と通り名を列記された、あくまで客観的で明白な座標軸として描かれている。
警視の初任給の約2,898ユーロや、随所に現れる実在の雑誌や商標名、
社会主義や美術評論についての交わされる議論もまた、
決定的に情緒を欠く(それぞれ興味深くはあるが)。
この固有名や数値の多用は、さらりと読める伝記のような文体を特徴づけていて、
それでいて、逆説的に一つの現代的な感受性なのかもしれない。
でも、ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』『ムッシュー』みたいな、
直截さを一つの諧謔とするような文体というわけではない。
ウエルベック本人ほか種々の実在の人物がスターシステムさながらに登場し、
そのきらびやかな風景があっさりと消えるように
ウエルベックが殺される後半が黙々と語られる、
この世間の冷たさみたいなものが、この文体と物語の流れから感じられる。
そして、主人公の画家の成功した人生を、
いやにそっけなく取るに足らないみたいものに感じさせる。
ましてや、主人公の制作する美術作品の価格は変動し、
格安航空会社ライアンエアーのチケット代は驚くべき安さにまで下落したりする。
自らの存在意義さえも賭けた商業主義に飲み込まれて、
やがてはみな老いていなくなる、
そして、画家のいないところで社会は画家を評価し、作意や思想まで評する。
描写は主人公を追っているのに主人公がどこにもいないみたいな、
そんな商業主義の冷たさに文学を染め上げたような、
不思議な無常観を催させる作品だった。
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