1.3.15

ボフミル・フラバル『私は英国王に給仕した』、いとうせいこう『ノーライフキング』、町田康『告白』、武田徹『暴力的風景論』、金田敬『春琴抄』、フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』、オルハン・パムク『わたしの名は紅』

○ボフミル・フラバル『私は英国王に給仕した』

作者はほんの数週間で書き上げたという。
思いつきが偶然のように織りなして物語を語る流れが、
主人公の職場を転々としながらその瞬間を楽しむ生きざまと重なる。
戦争によって仕事を壊されて、
自然に還るような妙に心に残る神秘的な終盤に至るまで、
幻想的な紀行文みたいな文体が、その即興性に裏打ちされているようだった。


○いとうせいこう『ノーライフキング』

「声の文化」的な判断力と情報網が、
ゲームに熱中する子どものネットワークを通じて、
いとも簡単に現実味を帯びて個々の判断力を覆うか、
という一つの恐慌的な試論のような小説だった。
結局は偶然の積み重ねなのに、それが一つの”真意”として語られ、
しかもその物語が暴走して周りを巻き込んでゆく、
その流れはトマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』的な
パラノイア的な展開でもある。


○町田康『告白』

町田康は、カネこそを理想と現実のズレとして描き、
その落差にはまる人間をテーマとしてきたように思う。
その意味で、この作品は町田康の集大成的なところがある。
この長篇ではこのズレをむしろ、
言葉と行為の間をうまく橋渡しできなくなるような考えの深み、
として導入する。
そして、借金に首が回らなくなるように、考えすぎで何もうまくいかなくなり、
最後には社会へ牙をむいて、すべての不具合を洗い流そうとする、
そういったカタルシスとして、河内の十人殺しを描いている。


○武田徹『暴力的風景論』

土地もまた過去を幾重にも抱えた、社会的なトポスなのだ、ということだ。
文化地理学的なそうした読みを、この評論は小説や宗教にも適用する。
事実、物語である以上、フィクションもノンフィクションも変わりはない。
各論は、村上春樹の芦屋の開発されてしまった海であり、
田中角栄や牧口常三郎にとっての裏日本・新潟であり、
酒鬼薔薇聖斗のなだらかな丘に広がる郊外だ。
原風景とその影としての展開、とまとめられるかもしれない。


○金田敬『春琴抄』

あえてモノクロで撮ったほうが綺麗だったかもしれない。


○フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』

現代人の一般形が、この本に明晰に描き出されている。
ペソアは私だ、と言い切ってしまっていい。
それは、渦を巻いて姿かたちを変えて襲ってくる倦怠と疎外感、だ。

倦怠……考えなしに考えること。しかも、考えることの疲労とともに。感じられるものなしに感じること。しかも感じることの不安とともに。望まれないものもなしに望むこと。しかも望まないことの嘔吐感とともに。
【中略】
倦怠……苦痛なく苦しみ、意志なく欲し、論理なしに思考すること……それは否定の悪魔にとりつかれ、存在しないものに呪縛されること。」(321)

けっしてみたことのないすべてを、私は見てしまった。
 まだ見たことのないすべてを、私はもう見てしまった。
」(384)

ひとはほんとうに誰かを愛することはけっしてない。唯一愛するのはその誰かに関して作り上げる観念だけだ。愛しているというのは、自分がでっちあげた概念であり、結局のところ、それは自分自身なのである。
 このことは愛のすべての段階について言える。性愛においては、他者の身体を介して自分自身の快楽が求められる。性愛と区別される愛においては、自分が作った観念を介して快楽が求められている。オナニストは卑しむべき存在だが、厳密に言えば、彼おそが愛の論理の完璧な表現なのだ。彼だけが誰も騙さない。他人も、自分自身も。
」(415)


○オルハン・パムク『わたしの名は紅』

ヨーロッパの遠近法に影響されず、イスラム世界の伝統と思想で描くということ。
その是非をめぐって、物語はあたかも藝術論だ。
語り手が章立てごとに入れ替わるように、トピックは重層的で、
一回の通読ではほとんど汲み取れなかったような気がする。

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