25.10.15

『広告都市東京』『未来の社会学』『愛と暴力の戦後とその後』『東京プリズン』『やさしさをまとった殲滅の時代』『ラノベのなかの現代日本』『ニッポンの音楽』

 長く放置したために、多くを失念してしまった。
 それでも忘れられなかった内容は貴重な経験として身になったにせよ、
 忘れられたすべてが軽んじられてよいわけではないはず。


今年(2015年)の3月に京都芸術センターで
佐々木敦、宮沢章夫らの対談を観て、
戦後の大衆文化と精神史のようなものについて、いたく興味を持った。
以来、宮沢章夫「ニッポン戦後文化サブカルチャー史」(NHK)を観たり、
岡崎京子『ヘルタースケルター』や浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』を読んだり、
関連する本を漁った。
結果として軽めの本ばかりになってしまったのは、
時代性とは、少年犯罪や文化現象に氷山の一角のようにして現れるものにすぎず、
体系的な研究が極めて難しいからなのか、
あるいは、そういった専門文献を当たるためのノウハウや語彙を知らなかっただけなのか。

カルチュラル・スタディーズ的な戦後日本文化の捉え方は一貫したものがある。
新宿の猥雑さと戦後政治への意識が生んだ劇場(型)文化があり、
西武=パルコによって花開いた渋谷がある。

面白いのはその先にあたるポスト80年代の捉え方の相違だ。
未だに総括されていない、終わってさえいないかもしれない時代区分だからだ。

宮沢章夫「ニッポン戦後文化サブカルチャー史」は秋葉原のオタク文化を挙げるが、
それはサブカルチャー分析ではなく現状説明にすぎない内容だった。
つまり、国営放送NHKによるクールジャパン宣伝であり、
日々のニュース番組からこぼれ落ちた三面記事だった。


○北田暁大『増補 広告都市東京 その誕生と死』

広告論として、広告装置としての都市の死、
そして、終わりなき日常と対するユートピア的昭和30年代、という
トポス性の喪失と欲求が分析されている。


○若林幹夫『未来の社会学』

現代における未来像は末尾の短い章立てだが、
高齢社会や環境問題やリスクといった不安に彩られている現状を、
ざっと紹介するように提示する。
そこまでの近代を扱う文脈では、おおむね未来を「来るべき時代像」と捉え、
社会運動やエキスポを取り扱っていただけに、
現代における未来が「来るべき時代」の喪失にほかならないという現状が露呈する。


○赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』『東京プリズン』

一方は新書であり、もう一方は小説だ。
戦前・戦中から続く何かが戦後もひっそりと漂っている、
その何かを、『愛と暴力の戦後とその後』は小説家らしい語り口で打ち明ける。
戦後史について、だ。
戦後の日本人が何を本音に抱いてきたか、が打ち明けられている。
内容としては、戦犯の級、英語原文を読んでようやく理解できる憲法の真意、
70年安保の内向きの暴力での終焉と大日本帝国軍の混迷の相似。
80年代が暴力的な地下水脈を隠してバブルに浮かれる描写は岡崎京子だし、
それがオウムという会社組織型宗教、時代の閉塞感へと続くあたり、
戦後の文化史をあまりにうまく語ってくれた。
パラパラとページをめくって拾い読みしても、面白い。
けだし名著に当たった、と思う。
『東京プリズン』は、高校生マリが留学先のアメリカで東京裁判をディベートする小説。
おそらく実体験をもとに書かれていて、
デビュー作かと思ったくらい内容に力が入っている。
『愛と暴力の戦後とその後』と繋がっていて、面白かった。


○堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』

ゼロ年代の時代性について、事例をちりばめながらなんとか纏めようとしている。
その意味で、もしかすると最も軽い本かもしれないが、
反面、もしかすると最も時代性を摑んでいるかもしれない。
ゼロ年代が、あっという間に口コミが広まり、
かつて口コミに距離を置いていたマスメディアさえも口コミに呑まれた、
という状況として捉え、大衆監視社会的な様相を呈している状態を指摘している。
面白いと感じた事例として、2002年日韓共同開催のサッカーW杯での、
韓国に対するささやかな違和感が、
メディア放送に対する慰撫がインターネットに求められたことだった。
呪詛が大衆のうねりとなってターゲットを引きずり落とすという現象は、
炎上、電凸、バカッターとなって世に蔓延する存在となっている。
結びとして、著者は「社会に迷惑をかけよう」という。
別役実『ベケットと「いじめ」』で分析されているような
個人の失墜と関係性の優越を、なんとか打ち砕け、と言いたげな、
しかし結局は「個」に縋らざるを得ない二律背反の、嘆息のような願望。


○波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』

社会分析を求めて手に取ったものの、著者はあくまで作品分析をしているので、
初めから分かり合えていない読中感はあった。個々の分析はとても面白かったが。
関係性からはみ出して孤立し、しかし社会へのコミットもない、という「ぼっち」が、
いかに「誰も傷つけずに」自らの居心地の悪さを消化できるか、
みたいな絶望的青春的模索、こそがラノベ。なのか。
だが、そうなのであれば、百のラノベよりも、
村上春樹や 『新世紀エヴァンゲリオン』な気がするが。


○佐々木敦『ニッポンの音楽』

戦後のそのときどきの時代の気分が何に新しさ(=差異)を求めてきたか、
そして、新しさがどのようにゆっくりと磨耗し消費されていったのか、
その歴史として読めた。
内部=外部としての差異がなくなり、時代的な差異さえ埋められた今、
中田ヤスタカが機械と人間の差異に新しさを求めているという、
閉塞して終わるのではなく新しさを全く別のところに求める動きは、
日本の音楽の歴史はまだ終わっていないという安心感と、
結局、歴史展開は経済的な差異に立脚しているにすぎないという真の病理とを、
同時に垣間見せている。

4.3.15

藝術が商業と結びつくことで何が起きるか

瀬戸内ビエンナーレに端を発するアート・プロジェクト、
商業施設のデザインを藝術家が担当するという試み、
さらには美術館への来訪そのものを百貨店と同様に飾るというマーケティング。

いずれも、藝術と日常の融合として、つまりは素晴らしい試みとして語られがちだ。
だが、本当にそうだろうか?
藝術が日常に対置した非日常の創出を目的としているのであれば、
商業のマーケティング手法とぴったり重なるだろう。
しかし、藝術とは本来、非日常を祝祭的に彩ることではないはずだ。
結局のところ、藝術が商業に結びつくのではなく、
商業が藝術を身にまとって、新たな集客の算段としているだけだ。
藝術はうわべで利用されているにすぎない。

むしろ、藝術(特に現代藝術) の試みというのは、
日常に埋没した何かを浮き彫りにして問いかけること、
つまり、日常を異化すること、であるはずだ。
藝術とは、日常を熟考することであり、
日常に取り憑いてそれを換骨奪胎してしまうことだ。
藝術は斥候のように、かくも前衛的でなければならない。

ところで、私は現代建築が好きだ。
それは、建築をそのあり方から突き詰めて考えた上で、
建築を(あるいは住宅を、商業施設を、公共施設を)
再定義しようと試みているからだ。
その意味で、ある種の産業デザインも好ましい。
Appleの製品はラディカルだし、川崎和男の眼鏡も好きだ。
もし皿に描かれた絵が皿というものを問い詰め、
皿を再定義するなら、その皿も好きだ。

もちろん、きっかけが商業主義であっても、
商業主義そのものを離れるほどに、あるいは相対化するほどに、
藝術そのものとして成り立てば、
それは非常に素晴らしい藝術活動となるだろうが。

1.3.15

ボフミル・フラバル『私は英国王に給仕した』、いとうせいこう『ノーライフキング』、町田康『告白』、武田徹『暴力的風景論』、金田敬『春琴抄』、フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』、オルハン・パムク『わたしの名は紅』

○ボフミル・フラバル『私は英国王に給仕した』

作者はほんの数週間で書き上げたという。
思いつきが偶然のように織りなして物語を語る流れが、
主人公の職場を転々としながらその瞬間を楽しむ生きざまと重なる。
戦争によって仕事を壊されて、
自然に還るような妙に心に残る神秘的な終盤に至るまで、
幻想的な紀行文みたいな文体が、その即興性に裏打ちされているようだった。


○いとうせいこう『ノーライフキング』

「声の文化」的な判断力と情報網が、
ゲームに熱中する子どものネットワークを通じて、
いとも簡単に現実味を帯びて個々の判断力を覆うか、
という一つの恐慌的な試論のような小説だった。
結局は偶然の積み重ねなのに、それが一つの”真意”として語られ、
しかもその物語が暴走して周りを巻き込んでゆく、
その流れはトマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』的な
パラノイア的な展開でもある。


○町田康『告白』

町田康は、カネこそを理想と現実のズレとして描き、
その落差にはまる人間をテーマとしてきたように思う。
その意味で、この作品は町田康の集大成的なところがある。
この長篇ではこのズレをむしろ、
言葉と行為の間をうまく橋渡しできなくなるような考えの深み、
として導入する。
そして、借金に首が回らなくなるように、考えすぎで何もうまくいかなくなり、
最後には社会へ牙をむいて、すべての不具合を洗い流そうとする、
そういったカタルシスとして、河内の十人殺しを描いている。


○武田徹『暴力的風景論』

土地もまた過去を幾重にも抱えた、社会的なトポスなのだ、ということだ。
文化地理学的なそうした読みを、この評論は小説や宗教にも適用する。
事実、物語である以上、フィクションもノンフィクションも変わりはない。
各論は、村上春樹の芦屋の開発されてしまった海であり、
田中角栄や牧口常三郎にとっての裏日本・新潟であり、
酒鬼薔薇聖斗のなだらかな丘に広がる郊外だ。
原風景とその影としての展開、とまとめられるかもしれない。


○金田敬『春琴抄』

あえてモノクロで撮ったほうが綺麗だったかもしれない。


○フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』

現代人の一般形が、この本に明晰に描き出されている。
ペソアは私だ、と言い切ってしまっていい。
それは、渦を巻いて姿かたちを変えて襲ってくる倦怠と疎外感、だ。

倦怠……考えなしに考えること。しかも、考えることの疲労とともに。感じられるものなしに感じること。しかも感じることの不安とともに。望まれないものもなしに望むこと。しかも望まないことの嘔吐感とともに。
【中略】
倦怠……苦痛なく苦しみ、意志なく欲し、論理なしに思考すること……それは否定の悪魔にとりつかれ、存在しないものに呪縛されること。」(321)

けっしてみたことのないすべてを、私は見てしまった。
 まだ見たことのないすべてを、私はもう見てしまった。
」(384)

ひとはほんとうに誰かを愛することはけっしてない。唯一愛するのはその誰かに関して作り上げる観念だけだ。愛しているというのは、自分がでっちあげた概念であり、結局のところ、それは自分自身なのである。
 このことは愛のすべての段階について言える。性愛においては、他者の身体を介して自分自身の快楽が求められる。性愛と区別される愛においては、自分が作った観念を介して快楽が求められている。オナニストは卑しむべき存在だが、厳密に言えば、彼おそが愛の論理の完璧な表現なのだ。彼だけが誰も騙さない。他人も、自分自身も。
」(415)


○オルハン・パムク『わたしの名は紅』

ヨーロッパの遠近法に影響されず、イスラム世界の伝統と思想で描くということ。
その是非をめぐって、物語はあたかも藝術論だ。
語り手が章立てごとに入れ替わるように、トピックは重層的で、
一回の通読ではほとんど汲み取れなかったような気がする。