それでも忘れられなかった内容は貴重な経験として身になったにせよ、
忘れられたすべてが軽んじられてよいわけではないはず。
今年(2015年)の3月に京都芸術センターで
佐々木敦、宮沢章夫らの対談を観て、
戦後の大衆文化と精神史のようなものについて、いたく興味を持った。
以来、宮沢章夫「ニッポン戦後文化サブカルチャー史」(NHK)を観たり、
岡崎京子『ヘルタースケルター』や浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』を読んだり、
関連する本を漁った。
結果として軽めの本ばかりになってしまったのは、
時代性とは、少年犯罪や文化現象に氷山の一角のようにして現れるものにすぎず、
体系的な研究が極めて難しいからなのか、
あるいは、そういった専門文献を当たるためのノウハウや語彙を知らなかっただけなのか。
カルチュラル・スタディーズ的な戦後日本文化の捉え方は一貫したものがある。
新宿の猥雑さと戦後政治への意識が生んだ劇場(型)文化があり、
西武=パルコによって花開いた渋谷がある。
面白いのはその先にあたるポスト80年代の捉え方の相違だ。
未だに総括されていない、終わってさえいないかもしれない時代区分だからだ。
宮沢章夫「ニッポン戦後文化サブカルチャー史」は秋葉原のオタク文化を挙げるが、
それはサブカルチャー分析ではなく現状説明にすぎない内容だった。
つまり、国営放送NHKによるクールジャパン宣伝であり、
日々のニュース番組からこぼれ落ちた三面記事だった。
○北田暁大『増補 広告都市東京 その誕生と死』
広告論として、広告装置としての都市の死、
そして、終わりなき日常と対するユートピア的昭和30年代、という
トポス性の喪失と欲求が分析されている。
○若林幹夫『未来の社会学』
現代における未来像は末尾の短い章立てだが、
高齢社会や環境問題やリスクといった不安に彩られている現状を、
ざっと紹介するように提示する。
そこまでの近代を扱う文脈では、おおむね未来を「来るべき時代像」と捉え、
社会運動やエキスポを取り扱っていただけに、
現代における未来が「来るべき時代」の喪失にほかならないという現状が露呈する。
○赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』『東京プリズン』
一方は新書であり、もう一方は小説だ。
戦前・戦中から続く何かが戦後もひっそりと漂っている、
その何かを、『愛と暴力の戦後とその後』は小説家らしい語り口で打ち明ける。
戦後史について、だ。
戦後の日本人が何を本音に抱いてきたか、が打ち明けられている。
内容としては、戦犯の級、英語原文を読んでようやく理解できる憲法の真意、
70年安保の内向きの暴力での終焉と大日本帝国軍の混迷の相似。
80年代が暴力的な地下水脈を隠してバブルに浮かれる描写は岡崎京子だし、
それがオウムという会社組織型宗教、時代の閉塞感へと続くあたり、
戦後の文化史をあまりにうまく語ってくれた。
パラパラとページをめくって拾い読みしても、面白い。
けだし名著に当たった、と思う。
『東京プリズン』は、高校生マリが留学先のアメリカで東京裁判をディベートする小説。
おそらく実体験をもとに書かれていて、
○堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』
70年安保の内向きの暴力での終焉と大日本帝国軍の混迷の相似。
80年代が暴力的な地下水脈を隠してバブルに浮かれる描写は岡崎京子だし、
それがオウムという会社組織型宗教、時代の閉塞感へと続くあたり、
戦後の文化史をあまりにうまく語ってくれた。
パラパラとページをめくって拾い読みしても、面白い。
けだし名著に当たった、と思う。
『東京プリズン』は、高校生マリが留学先のアメリカで東京裁判をディベートする小説。
おそらく実体験をもとに書かれていて、
デビュー作かと思ったくらい内容に力が入っている。
『愛と暴力の戦後とその後』と繋がっていて、面白かった。
『愛と暴力の戦後とその後』と繋がっていて、面白かった。
○堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』
ゼロ年代の時代性について、事例をちりばめながらなんとか纏めようとしている。
その意味で、もしかすると最も軽い本かもしれないが、
反面、もしかすると最も時代性を摑んでいるかもしれない。
ゼロ年代が、あっという間に口コミが広まり、
かつて口コミに距離を置いていたマスメディアさえも口コミに呑まれた、
という状況として捉え、大衆監視社会的な様相を呈している状態を指摘している。
面白いと感じた事例として、2002年日韓共同開催のサッカーW杯での、
韓国に対するささやかな違和感が、
メディア放送に対する慰撫がインターネットに求められたことだった。
呪詛が大衆のうねりとなってターゲットを引きずり落とすという現象は、
炎上、電凸、バカッターとなって世に蔓延する存在となっている。
結びとして、著者は「社会に迷惑をかけよう」という。
別役実『ベケットと「いじめ」』で分析されているような
個人の失墜と関係性の優越を、なんとか打ち砕け、と言いたげな、
しかし結局は「個」に縋らざるを得ない二律背反の、嘆息のような願望。
○波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』
社会分析を求めて手に取ったものの、著者はあくまで作品分析をしているので、
初めから分かり合えていない読中感はあった。個々の分析はとても面白かったが。
関係性からはみ出して孤立し、しかし社会へのコミットもない、という「ぼっち」が、
いかに「誰も傷つけずに」自らの居心地の悪さを消化できるか、
みたいな絶望的青春的模索、こそがラノベ。なのか。
だが、そうなのであれば、百のラノベよりも、
村上春樹や 『新世紀エヴァンゲリオン』な気がするが。
○佐々木敦『ニッポンの音楽』
戦後のそのときどきの時代の気分が何に新しさ(=差異)を求めてきたか、
そして、新しさがどのようにゆっくりと磨耗し消費されていったのか、
その歴史として読めた。
内部=外部としての差異がなくなり、時代的な差異さえ埋められた今、
中田ヤスタカが機械と人間の差異に新しさを求めているという、
閉塞して終わるのではなく新しさを全く別のところに求める動きは、
日本の音楽の歴史はまだ終わっていないという安心感と、
結局、歴史展開は経済的な差異に立脚しているにすぎないという真の病理とを、
同時に垣間見せている。
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